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[強打者が語る俺のエース時代(2)]村田修一「九州までは自分が一番だと」
posted2026/08/10 09:00
3年夏は初戦で豊田大谷に敗れた。投手として6失点も3点適時三塁打など3安打を放つ
text by

赤坂英一Eiichi Akasaka
photograph by
Keiji Ishikawa / NIKKAN SPORTS
松坂大輔と同じ1980年生まれの村田修一は、いわゆる「松坂世代」を代表するスラッガーだ。プロで2年連続2度の本塁打王を獲得した村田も、小中高時代まではエースを兼任。抜群のコントロールで相手を打ち取るクレバーな投手だった。
「小中はエースで4番、高校では3番でした。持ち球は真っ直ぐとスライダー、適当に投げるチェンジアップ。逃げ回って四球を出すのが嫌いなんで、相手が狙ってないだろう球をどんどんゾーン内に投げ込むんです。変化球でカウントを稼いで最後に真っ直ぐを使ったり、内で勝負したい時は最初から真っ直ぐで入ったり。そういう省エネスタイルが持ち味でしたね」
当時は福岡県でも九州全域でも、自分が一番だと思いながらプレーしていた。
「そりゃもう、県内では僕がトップの投手だと思ってました。九州大会に出たら新垣渚(沖縄水産)がいて、真っ直ぐは僕より速かったけど、コントロールだったら絶対こっちが上。杉内俊哉(鹿児島実業)とも練習試合で対戦して、得意なボールをちゃんと打ち返してやった。だから投打を合わせれば絶対に俺が上だと思ってたんです」
その鼻っ柱をたたき折られたのが、'98年春のセンバツで投げ合った横浜のエース、「平成の怪物」と呼ばれた松坂である。
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