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「ぼくは直接、差別されたことはない」大阪の“ラグビーの街”で育った在日コリアン4世・金勇輝(33歳)「ゆうきとヨンヒ」2つの顔を使い分けた小学生時代
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山川徹Toru Yamakawa
photograph byToru Yamakawa
posted2026/07/17 11:01
昨シーズンまでレッドハリケーンズ大阪でプレーした金勇輝(33歳)。現役を引退し、現在は社業に専念する
1993年生まれの金勇輝は、大阪朝鮮高校2年時に同校初の花園(全国高等学校ラグビーフットボール大会)ベスト4進出に貢献。3年時には全国高校選抜ラグビーフットボール大会で準優勝、花園でも2年連続のベスト4入りを果たした。高校日本代表、U20日本代表とステップアップし、法政大学では副将をつとめた。
大学卒業後は、NTTドコモレッドハリケーンズ大阪(現レッドハリケーンズ大阪)に進み、11シーズンにわたってプレーした。22年には、韓国代表に選出される。
「これ、ラグビー選手としての最後の名刺です」
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レッドハリケーンズ大阪のクラブハウスで、金が丁寧な手つきで差し出した名刺には〈ポジション・センター〉と記されていた。
「3歳からラグビーをはじめて、いま33歳。30年間、走り続けてきましたから。やりきったという思いもありますし、30年という区切りが、自分として誇りに思える数字かなと感じたんです」
「大阪朝高で花園に出る」アボジに託された夢
白とエンジの段柄のジャージ――。
金勇輝にとってのラグビーをめぐる原風景が、大阪朝鮮高校ラグビー部のユニホームだった。
かつて大阪朝鮮高校のジャージに袖を通した父は、幼い兄弟に何度も語り聞かせた。
「アボジの時代は全国大会に出られへんかった。その夢をお前らに託す。いつか大阪朝高(大阪朝鮮高校)のジャージを着たお前らが、花園でプレーするのを見るのが、アボジの夢や」
飽きるほど耳にした父の言葉に、金は苦笑いする。
「アボジ……父親は、ぼくが物心つく頃から、いや、母のお腹にいる頃から繰り返し語りかけていたみたいなんです。だから大阪朝高に入って花園を目指すのは、ぼくにとって当たり前のことだったんです」
金の父が高校生だった1970年代、各種学校に位置づけられる朝鮮学校の生徒には、花園や国体の道は開かれていなかった。卒業しても日本の大学に進学するには、夜間高校に通って単位を取得し、大検を受けなければならない。どんなにラグビーの実力があったとしても、朝鮮学校の生徒には、花園や国体の道は開かれていなかった。
全国高等学校体育連盟が花園予選への参加を特例で認めたのは、1994年度。大阪朝鮮高校が、大阪予選を勝ち抜いて花園に初出場を果たしたのは、2003年のことだ。
父が2人の息子に託したのは、挑戦すら許されなかった青春の夢だった。
金勇輝が生まれ育った東大阪市は、花園ラグビー場がある「ラグビーの町」だ。大阪体育大学でもプレーした4歳上の兄とともに、3歳の金は花園を拠点としたラグビースクールで楕円球を追いはじめる。
「父だけではなく、たくさんの朝鮮学校の先輩たちが悔しい思いをしてきたのは知っています。いまになれば、そうした先輩たちの思いを受け継がなければ、という思いもあります。でも第一は、ラグビーが本当に楽しくて、大好きなだけだったんです。子どもの頃からそれは変わりません」
少年時代の金少年を夢中にさせたのが、ラグビーというスポーツの本質だった。


