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「当時は生きるか死ぬか」竹下佳江に大バッシングも…伝説リベロ津雲博子(55歳)が明かす“女子バレー歴史的敗退”「息子のドラフト報道で何度も当時の映像が…」 

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田中夕子

田中夕子Yuko Tanaka

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photograph bySankei Shimbun

posted2025/12/12 11:06

「当時は生きるか死ぬか」竹下佳江に大バッシングも…伝説リベロ津雲博子(55歳)が明かす“女子バレー歴史的敗退”「息子のドラフト報道で何度も当時の映像が…」<Number Web> photograph by Sankei Shimbun

シドニー五輪最終予選で敗退し、五輪連続出場記録が途絶えた2000年。リベロ津雲博子(手前)らは試合後に号泣した

 葛和はシドニー五輪出場を逃した責任を取って辞任。古巣NECで再び監督に就任したが、代表監督で離れた4年の間に選手は大幅に入れ替わっている。自身に「リベロ」という仕事を与えてくれた恩師の存在が気がかりだった。

「私が橋渡ししなきゃいけないなと思っちゃったんですよ。でも選手として戻る気はないから、とにかくチームで1年、マネージャーとして仕事をして支える。リーグが終わったら正式に引退しようと考えていました」

 ところが、新シーズン開幕まで1カ月という時期にリベロの選手が大けがを負った。津雲も控え選手の練習を懸命にサポートしたが、布陣は十分ではなかった。それでも何とか奮闘していた矢先、葛和が発表した開幕戦のメンバーリストに腰を抜かした。

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「リベロ、リン」

 自分のコートネームが呼ばれると思っていなかった津雲は、思わず葛和の顔を二度見した。だが、覆ることはなかった。当然断ろうとしたが、葛和には日本代表に抜擢してくれたことに加え、もう一つ大きな恩があった。後の夫になるNEC監督・吉川正博との縁をつないだ張本人だったからだ。

実は葛和監督がキューピッドだった?

 吉川は葛和と入れ替わるようにして、日本代表監督に就任した。実は吉川に対して津雲が以前から憧れを抱いていたことを知ってか知らずか。葛和が何げなく津雲に言った。

「リン、お前どうや?」

 津雲は逸る気持ちを抑えてこう答えた。

「吉川さんがいいなら、私はいいですよ」

「二人で食事でもして来い」という葛和のパスを受け、コーチと選手という関係から前進し、交際が始まった。現在は結婚後も現役生活を続ける女子選手も増えたが、当時は圧倒的少数で、まして同じチームのコーチと選手が付き合うなどご法度と考えられた時代だった。極秘交際の末に、二人は2002年に結婚。正博がNECの監督に復帰した2004年に津雲は現役を引退した。

【次ページ】 「当時は生きるか死ぬか」厳しかった女子バレーの世界

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