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格闘技PRESSBACK NUMBER
嘲笑された柔道金メダリスト、元横綱もファンに見放され…なぜ他競技からの“プロレス転向”は難しいのか? 失敗から考えるウルフアロン「成功のカギ」
text by

布施鋼治Koji Fuse
photograph byAsami Enomoto/JMPA
posted2025/07/06 17:04
新日本プロレス入団を発表した柔道金メダリストのウルフアロン。過去には多くの“転向組”がプロレスへの適応に苦労した
ビデオリサーチによると、1970年の紅白の関東地区の平均視聴率は77.0%。民放各局は何をやっても、NHKに太刀打ちできない時代だった。紅白に対抗しうるコンテンツとして、当時高視聴率を稼いでいたプロレスに白羽の矢が立ったのだ。
結局この計画が陽の目を見ることはなかったが、その後、日テレ経由で全日本に上がったことを考えると、当時からヘーシンクと同局の間にはホットラインがあったと推測される。
全盛期の馬場vs.柔道世界一のヘーシンクは、“早すぎた曙vs.ボブ・サップ”だったのだろうか。
金メダリストよりも大成した“銅メダリスト”
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柔道界からヘーシンクに続いてプロレス界に転じた大物といえば、72年のミュンヘン五輪でふたつの金メダルを獲得した“赤鬼”ウィレム・ルスカ(オランダ)があげられる。アントニオ猪木の異種格闘技戦シリーズは76年2月6日のルスカ戦からスタートしている。その後、新日本に参戦したときには複数の若手を相手に5人掛けなどの柔道マッチを行ったこともあった。ややもすると動きが止まってしまう寝技ではなく、切れ味の鋭い投げに限定したところがポイントだった。
長州力や藤波辰巳(現・辰爾)がその強さに舌を巻いているだけに、ルスカの実力を疑う余地はない。しかしながらプロレスラーとして一流になったかといえば、必ずしもそうとは言い切れない。印象に残る試合といえば、猪木とのファーストマッチのみ。むしろブラジルで実現したイワン・ゴメスとのバーリトゥードマッチや巡業で一緒だった他の外国人レスラーとのストリートファイトなど、プロレスのリング外での武勇伝の方が多い。
リングに上がったルスカにはエンタメ性が欠如していたのだろうか。プロレスラーとして評価するならば、新日本でルスカとも柔道ジャケットマッチを繰り広げたバッドニュース・アレン(アメリカ)の方が大成したといえる。
アレンは76年のモントリオール五輪重量級銅メダリスト。筆者は78年2月2日、アレンが練習生として新日本の巡業に初めて同行したときに札幌で行われた、言葉の発音にハンディキャップを持つサイレント・マクニーというレスラーとの一戦を克明に覚えている。

