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マスクの窓から野球を見ればBACK NUMBER
「一茂さんは実家から帰るといつもゲッソリして…」長嶋茂雄逝去で思い出す愛息・長嶋一茂“ドラ1候補”時代…立大後輩が語った「一茂主将」の素顔
text by

安倍昌彦Masahiko Abe
photograph byAFLO
posted2025/06/24 11:01
立教大学時代の長嶋一茂。4年時にはキャプテンを務め、大学ジャパンにも選ばれるなど活躍。その後のドラ1指名へと繋がっていった
組み合った感覚として、何がなんでも勝とうという気はなかったようだという。
「後輩の僕が、こんなことは言っては失礼かもしれないですけど……」
長幼の序を守りながら、矢作さんは言う。
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「一茂さんが初めて野球に真剣に向き合うようになったのは、4年生でキャプテンになって、学生ジャパンの一員にも選ばれてからじゃないですかね」
当時の東京六大学には、のちにプロに進んだりした学生球界を代表するような快腕・剛腕がゴロゴロと居並んでいた。
早稲田にご存じ小宮山悟(リーグ戦20勝)、明治には日本ハムでエース格の働きをした武田一浩(同20勝)、法政には阪神で活躍した左腕・猪俣隆(同20勝)。
プロには進まなかったがリーグ戦31勝を挙げた左腕・志村亮が慶應の絶対的エースに君臨していて、東大にだって国立高時代に甲子園に出場し、大学でもピンポン球みたいにクネクネ動くクセ球を駆使して7勝を挙げた市川武史。ちょっとやそっとの覚悟では太刀打ちできそうもない「すご腕」が、各大学に揃っていた。
実家から寮に戻ってきた一茂…その手のひらは?
「練習が休みの日は、近いヤツは実家に帰って栄養補給したり、彼女とデートしたり、楽しい時間を過ごして、ふくよかで穏やかな顔で寮に戻ってくるものなんです。でも、一茂さんだけはいっつもゲッソリした顔で、手のひらボロボロにして戻ってきていました」
当時、ユニフォームを脱いで「文化人活動」をしていたお父さまが在宅していて、たまに実家に帰ってきたかわいい我が子に「よっし、いっちょう稽古つけてやろ!」と気合いが入った結果ではないか……矢作さんは、そう推察している。

