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「時が来ればスッと現れるよ」桑田真澄が運命に導かれ背負った“18番”へのプライドと、後継者への想い
posted2025/04/07 10:00
2006年9月24日、巨人では最後となるファームの試合に先発した桑田。在籍20年で173勝を挙げた
text by

石田雄太Yuta Ishida
photograph by
JIJI PRESS
あれはもう40年も前のことだ。
1985年の秋、ドラフト1位で桑田真澄を指名してPL学園を訪れたジャイアンツのスカウトが、まだ高校生だった桑田の目の前に風呂敷の包みを置いた。それは桑田が憧れ続けたジャイアンツのユニフォームだった。桑田はドキドキしながら、その包みを開けた。
まず、左側の“1”が見えた。
『あっ……10番台だ』
ジャイアンツから背番号の希望を訊かれていた桑田は、「空いている中で18番にできるだけ近い番号を」と伝えていた。そのオフ、空く可能性があった18番に近い番号は19番、20番、そして空き番だった18番──。
「そんな、18番がいいだなんて、恐れ多くて言えないじゃないですか(笑)」
当時のことを桑田は照れくさそうに振り返った。世間から見ればふてぶてしかった甲子園のスーパースターも、まだ17歳。奥ゆかしくもさりげなく伝えていたつもりの想いを、天下のジャイアンツは汲み取ってくれていた。
「いいんですか……」
ルーキーの桑田に、ジャイアンツは堀内恒夫がつけてきたエースナンバー、18番を託したのだ。その結果、藤田元司、堀内、桑田──ジャイアンツの18番は半世紀近く、この3人だけで受け継がれていくことになる。堀内が引退した1984年のオフ、30番だった江川卓に18番へ変更しないかと打診があったというエピソードを桑田に伝えると、彼は「知らなかった」と驚いてみせた。さらに、その打診を江川が断ったらしいと付け加えると、桑田は「いかにも、江川さんらしいね」と言って、笑った。
「それが、いつも僕が言う”人間は見えない力に支配されている”ということだと思うんです。もし、堀内さんがやめた年に僕が入っていたら、恐れ多くてすぐに18番なんてつけられなかったかもしれないし、江川さんがその申し出を受けていたら僕は違う番号をつけていたでしょうし……」
18番の美学
桑田はジャイアンツで173勝を挙げ、エースナンバーに相応しい実績を積み重ねた。しかし、プロ20年目の2005年、桑田は12試合に先発しながらひとつも勝ち星を挙げることができないという、屈辱の1年を過ごした。0勝7敗──「桑田も終わりだな」と囁く声が聞こえてくる。たまりかねて、桑田にこう訊ねてみた。
140キロに満たないストレートで綺麗なピッチングをしようとしても無理があるのではないか。内角の厳しいところを突いてバッターの上体を起こしてから、次に外角いっぱいに決めればバッターは踏み込めないんじゃないか。
すると桑田は「インコースは使ってますよ」と反論する。だからこちらは、いやいや、インコースといってもストライクゾーンではなく、バッターが避けないと当たるようなボールゾーンのインコースのことだ、と追い打ちをかけた。桑田のコントロールをもってすればそこへ投げるのは容易なはずだからだ。すると桑田は苛立ちを隠さず、こう言った。

