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甲子園鮮烈デビュー、あの巨人戦から10年…“阪神ドラフト1位”意外すぎる現在の姿とは?「26歳で戦力外通告」「引退後は安定した生活を捨て…」
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栗田シメイShimei Kurita
photograph bySankei Shimbun
posted2025/02/14 11:07

2014年ドラフトで阪神に1位指名され、新入団会見でポーズを決める横山雄哉(2014年12月)
丸刈りの野球部員たちは、掃除の時間中からそわそわし始める。ホームルームが終わった瞬間に全力ダッシュで部室へ駆けた。着替えは1分以内。靴の並び方にズレがあると激怒され、部室の状態にも細心の注意を払う。正座して挨拶練習をするのも日課だった。その様子は人材育成に活きると、県下の企業が研修の一貫として見学に来るほどだったという。
高校生活も1年が経過すると、中学時代には素行面を指摘する声があった横山は別人のようになっていた。同時に野球に打ち込む姿勢にも変化が生じる。
「とにかく監督が怖かった。本当に怖かったんですよ(笑)。自らの意志は二の次で、他に何も考えられないくらい練習もめちゃくちゃしたんですが、不思議なもので練習が好きになっていった。手を抜くようなことも一切なかったんです。今の時代に合うかは分かりませんが、少なくともチャラチャラしていた僕には合っていました。心が変わると、それは野球の実力面にも現れていった。当時は嫌で仕方なかったけど、最高の環境だった、と今では思っています」
初甲子園でまさかの13失点…
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2年春には、21世紀枠で甲子園初出場を果たす。横山はエースとしてマウンドに上がるが、日大三高に18安打13失点とメッタ打ちにされた。人生で一番打ち込まれたというこの日の記憶は、日大三高のチャンステーマが延々と流れ続けていたこと、ベンチに戻ると相手のエースである山崎福也(現・日本ハム)の球速の速さに感嘆したことだけだった。レベルの違いを痛感した。
一方で、この敗戦が野球人として成長を促したことも事実だった。
大舞台を経たことで課題が見つかり、ウェイトトレーニングにも本格的に取り組むようになる。すると球速も伸びていき、130キロ台半ばまで届いた。横山のようにストレートの“質”が命の投手には、球速アップがもたらす恩恵も大きかった。
2年夏は自らの好投で初の甲子園出場を勝ち取り、プロのスカウトからも熱視線を送られるようになっていく。プロ入りを明確に意識し始めたのもこの時期からだ。
「春は“与えてもらった”という感覚。甲子園をずっと目標にやってきて、夏は自分たちで掴み取った。だから、夏の甲子園出場は本当に嬉しかった。辛くキツい日々も、全ては甲子園に繋がっていた!と考えると、チームメイトと共有できる喜びもひとしおでした」
夏の甲子園も九州学院高を相手に6回7失点と、本領発揮とはいかなかった。3年夏は県予選で決勝まで進むも、聖地にはあと一歩届かない。ただし、中学時代の実績から考えると、横山は自らの成長に手応えを感じていた。プロ入りも現実的な目標だと捉えていた。
仮に育成契約であれ、プロへ。それが横山の強い思いだった。
だが、高校時代の横山を指名する球団は現れなかった。失意から野球をやめることも考えた。プロに進めないなら、野球を続ける意味がない。自暴自棄になった横山の心境を見抜いていたのは、他ならぬ恩師だった。