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「オグリキャップは燃え尽きてしまったのか」17万人超の観衆、歩くことも困難で…“伝説の有馬記念”の異様な雰囲気「馬券オヤジも野次を飛ばさず…」

posted2024/12/18 17:01

 
「オグリキャップは燃え尽きてしまったのか」17万人超の観衆、歩くことも困難で…“伝説の有馬記念”の異様な雰囲気「馬券オヤジも野次を飛ばさず…」<Number Web> photograph by Sankei Shimbun

1990年の有馬記念、武豊を背にラストランで“奇跡の復活”を果たしたオグリキャップ。中山競馬場は「オグリコール」に包まれた

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島田明宏

島田明宏Akihiro Shimada

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Sankei Shimbun

 1990年12月23日、中山競馬場は朝から人で溢れていた。最寄りの船橋法典駅に着いた満員電車から、木下街道を通って入場した人の列がそのままつづいているのではないかと思うほどだった。

 何しろ、GIIでも入場者が平気で10万人を超えていた時代である。

 私は、その年の日本ダービーを、取材申請せずに観戦して大変な目に遭い、ひどく後悔していたので、この日は取材章(当時は緑色の腕章) をつけて入場した。

「史上最多」のダービーを上回る人口密度

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 本題の有馬記念当日の話をする前に、そのダービーについて少々。古いファンなら、1990年のダービーと聞いただけでピンと来るだろう。そう、今なお日本の全競馬場の入場者数レコードである19万6517人が詰めかけ、勝ったアイネスフウジンに騎乗していた中野栄治の名を連呼する「ナカノコール」に東京競馬場のスタンドが揺れた日である。

 ダービーの何時間も前から飲み物や食べ物の店はどこも長蛇の列で、どこかで休もうとしても、ベンチはもちろん、トキノミノル像の奥の花壇を囲む縁石にまで隙間なく人が座っていて、立っているしかなかった。

 何より参ったのは、パドックからスタンドの下を抜けてコースの近くに行こうとしても、人、また人の分厚い壁に阻まれて、スタンドの下より前に進むことができなかったことだ。遠く離れたところからダービーを見ることになり、複勝を買っていたホワイトストーンが直線で外から伸びていたことだけはかろうじてわかった。わかったとはいっても、ホワイトストーンの芦毛の馬体の一部と、鞍上の田面木博公の黒帽と勝負服が見えただけで、何が勝ったのかはすぐにはわからなかった。なお、ホワイトストーンは12番人気ながら3着と好走した。

 少々と言っておきながら前置きが長くなってしまった。その7カ月後、オグリキャップの引退レースとなった有馬記念当日、中山競馬場には17万7779人のファンが集まった。数字上はダービーより2万人ほど少なかったが、キャパシティの違いで、この日の中山競馬場内の人口密度は、ダービーデーの東京競馬場を明らかに上回っていた。

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