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工藤公康に医師が宣告「このままの生活なら死にますよ」ドン底時代にプロポーズ…ソフトバンク名将語る“夫人の話”「子を生観戦させなかった」理由《結婚BEST》
text by
田尻耕太郎Kotaro Tajiri
photograph byYuki Suenaga
posted2024/11/25 11:00
ソフトバンク元監督・工藤公康がNumberWebのロングインタビューに応じた
プロポーズに「妻の反応」
「今年か来年でひょっとしたらクビになるかもしれない。もしクビになったら、田舎に住んで、週末は子どもたちに野球を教える生活をしたい……『それでもいい?』と訊いたら、『野球を辞めて、今のような不摂生をしなくなるなら、それの方がよっぽど良い』みたいな返事をもらいましたね(笑)」
1989年オフ、26歳の結婚を機に、日常生活とともに野球人生もガラリ一変した。
「妻に背中を押されたんです。『どうせダメかもしれないなら、最後までやるだけやってみたら?』と。言葉では、『あと1年や2年でクビになる』と現実を受け入れたかのように話していても、妻には、私がまだ諦めきれず、もがいて、苦しんでいるように見えたんでしょうね。昔は携帯電話が普及していなかったから、飲みの誘いは家の電話にかかってくる。それを妻が『主人は行かなくなりましたから』『もう行かないんですよ』って全部断っていました。私が横にいても片っ端から電話を切って、『誰から電話?』と訊ねても『え、知らない』って返されました(笑)」
妻・雅子さんの貴重な回想
雅子さんは当時のことをこう話していた。
「主人はお世話になっている人と言っていましたけど、じつは振り回されているだけだったりするんですよ。でも男の人って照れがあって抜け出せないんです。『じつは必死に野球だけをやりたい』って言えずにズルズル行ってしまう。それを『嫁がうるさくて』という言い訳ができたことで野球漬けにまた戻れたんですよ、きっと」
また、工藤は29歳の頃に右ハムストリングの肉離れを起こしたことをきっかけに、スポーツ医学の先生と出会い、運動生理学や解剖学も勉強するようになった。野球に情熱と神経のすべてを傾ける原点がそこだった。
「うちは貧乏でした」工藤の少年時代
そして私生活では結婚からほどなくして第1子の阿須加(現在は俳優)が誕生。その後も子宝に恵まれ、二男三女の父となった。
「私は野球選手だったので家を不在にすることが多く、子育ては妻に頼りっぱなしでした。頭が上がりません。私自身は、子どもに不自由をさせないような父親になろう、と考えていました。それが子どもの頃に誓ったことだったので」
愛知県で生まれた工藤は、自身もまた5人兄弟で、その4番目として育った。