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マスクの窓から野球を見ればBACK NUMBER
「夏の負け方は、受験結果に大きく関わる」…甲子園に2度出場“偏差値70”「青森No.1進学校」野球部の名伯楽が語る“普通の高校野球”のあるべき姿
text by
安倍昌彦Masahiko Abe
photograph byAsahi Shimbun
posted2024/09/14 06:03
1985年に続いて1994年も夏の甲子園に出場した品田郁夫監督率いる八戸高。30年以上、「普通の公立進学校」を率いて名伯楽が感じた想いとは?
子供と大人の境目の時期に、選手たちと長い時間を共に過ごす高校野球の指導者だからこそ、卒業後の人生にも関わらなくてはいけないのではないか。
「寝ている時間を除けば、おそらく家族より長い時間、接してるわけさ。どの大人よりも高校3年間、いちばん長く接している指導者が、生徒たちの全人格に対して、責任がないわけがない。そうじゃねぇか?」
教師じゃなかったからこそ、教師以上でなければならないと、ずっと思ってきた。その言葉が、再びよみがえる。
「そりゃあ、理想論かもしれないけどさ。でも、そういう付き合い方をしなかったら、もし卒業後の彼らの人生で、万が一のことが起こった時に、立っていられますか? 指導者のあなた、大丈夫ですか?って、そういうことなんだよ」
1985年の夏、最初の甲子園出場のすぐあとに、品田監督は一度「監督職」を退いている。そして再度、八戸高監督にカムバックしたのは、それから9年経った1994年の春。
品田監督カムバックの第一声を、当時の選手たちは、皆が覚えていた。
「オレはオレの野球をやる。君たちは、君たちの野球をやってくれ」
選手たちは一瞬、「突き放されてしまったのか」とひどく戸惑ったという。
「そういうひと言だって、監督のオレにもうちょっと配慮があれば、彼らにそんな心配かけることなかったんだよなぁ」
2度の甲子園は「選手たちに出してもらった」
それでも品田監督が復帰してわずか3カ月後、夏の青森県大会。
強豪・光星学院の全国有数の左腕と評された洗平竜也(元・中日)に9連続奪三振を喫しながら辛くも破り、青森山田をも倒して品田監督2度目の「甲子園」を勝ち取った。
「2度の甲子園は、選手たちに出してもらった。本当に、選手たちのお手柄なんだ。予選で負けた時は、監督の、つまりオレの準備不足。ああいう練習もしておけばよかった、この練習もしておけば。もっと、もっと、オレがしてあげられたことがあったのに」
悔いることばかりだという。
「監督の仕事っていうのはな、夏の大会の、最初の試合の、プレーボールまで。そこまでが、監督の仕事なんだよ。試合開始のサイレンが鳴ったら、そこから先は、選手たちの邪魔をしちゃいけないんだ」
選手の、選手たちによる、選手たちのための高校野球。それも、何度か、品田監督から発せられた言葉だ。
「指揮は執るよ、もちろん。作戦も立てるし、サインも出す。でも、その作戦が当たったからって、それは監督の手柄じゃない。作戦をそのまま実行してくれた選手たちがいたからでしょ」