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「賭け将棋から“ホンマの将棋指し”になった阪田三吉」「関根金次郎ら有力棋士が派閥形勢」…将棋連盟設立“100年前の人間模様”が濃い
text by
田丸昇Noboru Tamaru
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2024/01/30 06:01
昭和初期に撮られた関根金次郎(中央)らの1枚。日本将棋連盟が発足した100年前とはどんな時代だったのだろうか
関根金次郎は千葉県の出身。伊藤十一世名人の門下。17歳のときから将棋行脚の旅に出て、全国各地の強豪を訪ねて腕を磨いた。その途次において出会ったのが、後年に宿命のライバルとなる阪田三吉だった。関根は明治38年(1905)に八段に昇段。土居市太郎、花田長太郎、木村義雄らの名棋士を門下から輩出した。十三世名人だった昭和10年(1935)には自ら退位し、今日の実力名人戦の礎を築いた。
阪田三吉は“賭け将棋”から「ほんまの将棋指し」へ
阪田三吉は伝説の棋士として、没後に映画やドラマの主人公になった。大阪府の出身。家業の草履職人を継いだが、仕事に身が入らず賭け将棋を指していた。関西で無敵と怖れられていた20代半ばの頃、遊歴中の関根四段と指して完敗し、ショックのあまり10日も寝込んだという。それから10年後に関根八段と再戦して逆転負けすると、「わいは今日から、ほんまの将棋指しになる。日本一になったる」と宣言。本格的に棋士を目指す決心を立てた。
その後、阪田は上京して関根らの高段棋士と対戦し、独自の力将棋で奮闘した。大正2年(1913)には平手(駒落ちのハンデなし)の手合いで関根に初めて勝った。阪田は大正4年に八段に昇段。当時は最高段位で、準名人の格だった。そして大正6年に関根に勝ち、次期名人の最有力候補となった。そんな阪田に立ちはだかったのが、関根の弟子の土居七段だった。
土居市太郎は愛媛県の出身。関根八段の門下。少年時代に骨膜炎で左足に障害が生じ、東京に行けば名医の治療を受けられると思った。しかし、関根の知人の医者に「左足は不治」と診断された。入門した頃は粗削りな将棋だったが、天野宗歩の名著『将棋精選』を熟読すると、めきめきと上達して昇段を重ねた。大正6年の関根−阪田戦の6日後、阪田八段は土居七段と対戦した。
以前に3連敗していたので、名人に向けて勝たねばならない相手だった。しかし、阪田はまたも敗れる不覚を取り、悄然たる思いで大阪に帰った。各新聞は土居の勝利を大きく報じた。それが土居の「出世将棋」となり、以後の20年間は輝かしい土居時代を築いた。非凡な才能があり、名人候補と嘱望された。ただ終生名人の制度だったので、師匠の関根を差し置いて名人にはなれなかった。
「棋歴、名声ともに関根はんが順当」
大正6年に土居七段が阪田八段に勝ったことは、師匠の関根八段を援護射撃する結果となった。
大正10年5月、関根は多くの棋士の推挙を受けて十三世名人に就位した。その披露宴は東京・日比谷の料亭で盛大に開かれた。最大のライバルの阪田も臨席し、「棋歴、名声ともに関根はんが順当」と語って関根を推した。
こうして新名人が生まれたが、大正時代後期は有力棋士たちが派閥を作って割拠していた。