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「高校まで全く無名だった」森保一監督…そのサッカー人生で1番のナゾ「なぜ地元の強豪・国見高に行かなかった?」親友がいま明かす“受験の真相”
posted2024/01/28 11:05
text by
木崎伸也Shinya Kizaki
photograph by
AFLO
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「なぜ国見高に進学しなかった?」
森保一のサッカー人生にはひとつ大きな謎がある。
「なぜ国見高校に進学しなかったのか?」という謎だ。
1968年8月生まれの森保は、1984年に地元・長崎市立深堀中を卒業している。
当時、長崎県の高校サッカーと言えば、小嶺忠敏監督率いる島原商業高校が強豪の筆頭だった。1977年にインターハイで長崎県勢として初優勝し、1981年と1983年には国体で優勝。小嶺監督の指導力と選手集めの力によって全国区のチームになった。
森保が中3のとき、その名将が今度は国見高校に転任するというニュースが飛び込んできた。もし国見高校に進学すれば、小嶺新体制の一期生になれる。県内の有力選手はこぞって国見への進学を希望した。
「国見高の受験に行く約束をしていた」
森保も例外ではなかった。受験票を手に入れ、隣町の親友・岩本文昭とバスで2時間かけて受験会場へ行く約束までしていたのだ。
岩本は振り返る。
「僕自身は小嶺先生から声をかけて頂き、『国見に来ないか』と誘って頂きました。森保には声はかかりませんでしたが、小嶺先生の構想に間違いなく入っていたと思います。森保とは異なる中学校に通いながらも、試合で切磋琢磨してきた仲だったので国見で一緒にやりたかった。森保もそう思ってくれていました」
ところが受験当日、待ち合わせしていたバスに森保が姿を見せなかったのである。先に行ったのかなと思ったが、現地に到着しても見当たらない。結局、森保は試験会場に現れなかった。
国見に行った親友は「全国で活躍」
森保が進学先に選んだのは長崎日大高校だった。深堀中学サッカー部でコーチをしていた三菱重工の選手が同校出身で、推薦してくれたのがきっかけだ。特待生という破格の扱いだった。