NumberPREMIER ExBACK NUMBER
「世界中のトップホースが集結」トウカイテイオーが“歴史”を変えた史上最強のジャパンカップ前夜…元番記者が振り返る31年前の記憶
posted2023/11/05 17:00
text by
石田敏徳Toshinori Ishida
photograph by
JIJI PRESS
発売中のNumber1083号に掲載の[歴史を変えた1度目の復活]トウカイテイオー「本物の輝きを待ちわびて 1992ジャパンカップ」より内容を一部抜粋してお届けします。【記事全文はNumberPREMIERにてお読みいただけます】
日本初の国際競走として1981年に創設されたジャパンCは、'90年代に入るあたりから成熟期を迎えた。黎明期とは打って変わって、海外のトップホースが続々と参戦してくるようになったのだ。
外国馬の陣容が年々、分厚くなっていった背景にはいくつかの要因があった。回数を重ねながら着実に高まってきたレースの知名度。当時は世界屈指といえた高額賞金。迎え撃つ日本馬がまだ、外国馬を圧倒する存在ではなかったことも理由のひとつだ。相手は与しやすく、賞金は高い。まして渡航費用は主催者持ちの招待競走があると知れば、誰だって出掛けてみたくなる。
「レース史上でも最強の布陣」との外国馬評は、ニュージーランドのホーリックスと稀代のアイドル・オグリキャップがクビ差の激闘を演じた'89年から目立ち始め、次の年(優勝馬は豪州のベタールースンアップ)も使い回された。
翌'91年の外国馬こそ「ここ数年に比べると数段落ちる」という触れ込みだったが、日本の総大将メジロマックイーン(4着)をズドンと差し切った米国のゴールデンフェザントは、日本でも名高いアーリントンミリオン(世界初の賞金総額100万ドル競走として'81年に創設)の勝ち馬。2着のマジックナイト(仏)は同年の凱旋門賞2着馬である。
「ジャパンCもついに、このレベルの大物が本気で狙ってくるレースになったのかと思うとオレは感慨深いよ」
第1回のレースから取材してきた私の上司が、しみじみとそう漏らしていたことを覚えている。
世界中のトップホースが一堂に会するドリームレース
そして'92年。“数段落ち”の前年を踏まえ、JRAも招致活動にいっそうの熱を入れたのか、この年のジャパンCには目も眩むような大物が顔を揃えた。詳細は後述するが、「史上最強の布陣」を通り越し、「世界中のトップホースが一堂に会するドリームレース」がジャパンCで実現した感さえあった。
それほど層が厚かった外国馬を、真っ向勝負で下したのがトウカイテイオー(以下、テイオー)だった。日本馬の勝利は父シンボリルドルフ('85年に優勝)以来7年ぶりで、歴代3頭目。負かした外国馬のネームバリューを考えれば、過去の2勝とは一線を画していた。
日本の競馬にとって記念碑的な勝利が飾られたあの日。当時、サンケイスポーツで競馬記者を務め、前年からテイオーの番記者を担当していた私は、“凱旋する将軍”のような誇らしさと“冷や水をぶっかけられた気持ち”の双方を味わった。