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“お祈り名MF”ビスマルク53歳、少しぽっちゃりしたけど…「イハラもカズも覚えてるよ」驚きエピソードを告白〈現地インタビュー〉 

text by

沢田啓明

沢田啓明Hiroaki Sawada

PROFILE

photograph byKazuaki Nishiyama

posted2023/07/02 11:00

“お祈り名MF”ビスマルク53歳、少しぽっちゃりしたけど…「イハラもカズも覚えてるよ」驚きエピソードを告白〈現地インタビュー〉<Number Web> photograph by Kazuaki Nishiyama

ヴェルディ川崎で輝いた頃のビスマルク。今、何してる?

「驚くやら怒るやらで、半狂乱みたいになった。彼女にしてみれば、家賃収入をあてにしていたわけだからね。でも、いくら文句を言っても父が平然としているので、やがて諦めた。そういう性格の人間だとわかっていて結婚したはずだしね(笑)」

――その後は?

「父は近所の子供たちを集めて5人制のチームを作り、そのコートで練習をした。ブラジルには『ドーノ・ダ・ボーラ』(ボールのオーナー)という言葉があり、ボールを持ってきた奴が一番偉い。好きなポジションでプレーできて、チームのメンバーも選べる。僕たち兄弟は、父がチームのオーナーにしてコートの持ち主で、ボールの持ち主でもあったから、いつも大威張りでプレーできた(笑)。以来、学校から帰ってくると毎日、そこでボールを蹴った」

憧れの選手はジーコだった

――外部のチームに入ったのはいつですか?

「8歳のとき、バスコのフットサルチームに入った。ホームスタジアムのスタンドの下にコートがあり、週3回、そこへ通った。そして、13歳のときクラブのフットボール部門のアカデミーに入った」

――当時からプロ選手を目指していたのですか?

「いや、フットボールはあくまでも趣味のつもりだった。学校の成績が良かったから、大学を出て体育の先生か弁護士になりたいと思っていた。

――当時のポジションは?

「トップ下。憧れの選手は、ジーコ(注:当時、フラメンゴのエース)だった」

――フラメンゴはバスコの最大のライバルですが…。

「サンパウロの4大クラブは、お互いのライバル意識がとても強いよね。でも、リオは少し違っていて、ライバルクラブの選手であっても誰もが認めるスターが何人かいた。ジーコはその筆頭だった」

――それから10数年後、地球の反対側で彼と一緒にプレーするとは?

「もちろん、全く予想していなかった」

若き日のロマーリオらとも戦友に

――そして、以後、バスコのアカデミーを順調に昇格してプロ契約を結ぶわけですね。

「1987年、17歳で最初のプロ契約を結んだ。8歳からバスコに通っていて、クラブが自分の第二の家だったから、とても嬉しかった。バスコの大ファンだった父がとても喜んでくれたし、父の影響でバスコのファンになっていた母もね。このとき初めて、母は賃家を壊してフットボールのピッチを作った父を許したんじゃないかな(笑)」

――当時のバスコの攻撃陣には、若きロマーリオ、ベテランのロベルト・ジナミッチらセレソン(ブラジル代表)の精鋭がいましたね。

【次ページ】 セレソン選出に両親も涙を流して…

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