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[初代王者の回想]中川家「無理にでも出場してよかった」
posted2022/12/01 07:05
text by
中村計Kei Nakamura
photograph by
Shunsuke Mizukami
数多の名勝負を生み出すことになるM-1グランプリ。第1回大会は出場者すら全容が掴めない状況だった。そんな中、実力派兄弟コンビが味わうことになる未体験の重圧とは。すべてはここから始まった――。
明らかにふざけていた。
兄弟漫才師・中川家の小さい方、兄の剛は茶目っ気たっぷりに話す。
「こんときは、ポケットに手を突っ込んで、ダラダラ漫才してましたからね」
2001年9月29日、場所はなんばグランド花月(NGK)内にあるテレビ番組収録用のスタジオだった。そこでは、9月9日に開幕した記念すべき第1回M-1グランプリの1回戦が行われていた。
'01年9月と言えば、世界的な大事件が起きた月でもあった。11日、ニューヨーク世界貿易センタービルにジェット機が相次いで突っ込み、110階建てのツインタワーが崩れ落ちた。アメリカ同時多発テロである。世界が震えた。
そんな動揺する世界の片隅で、M-1は、ひっそりと産声を上げていた。
1000を超える組の応募があったM-1の1回戦は約2カ月に渡り、全国9都市11会場で、17回に分けて開催される予定だった。
1回戦のネタ時間は今は2分だが、当時はまだ3分だった。3分15秒を過ぎると警告を意味する電子音がなり、3分30秒に達すると大きな効果音とともにステージは赤い照明に染まる。強制終了である。
中川家はその日、この強制終了を食らった。ルールは参加者に周知徹底されていたにもかかわらず、弟の礼二は警告音が鳴ると舞台上でこう放言した。