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「取材者としては失格」サイレンススズカ“あの悲劇の天皇賞・秋”を現地観戦していた記者が“無くした記憶”「スズカだけのレースではない…」

posted2022/10/30 11:01

 
「取材者としては失格」サイレンススズカ“あの悲劇の天皇賞・秋”を現地観戦していた記者が“無くした記憶”「スズカだけのレースではない…」<Number Web> photograph by KYODO

1998年11月1日、天皇賞・秋。レース中に故障を起こし、離脱するサイレンススズカ

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江面弘也

江面弘也Koya Ezura

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KYODO

数々の名勝負が生まれてきた天皇賞(秋)。1998年、スペシャルウィーク、セイウンスカイらがクラシックを沸かした年、このレースで1番人気に支持されたのはサイレンススズカだった。日本競馬史に残る悲劇となったあの天皇賞(秋)とは何だったのか――『競馬ノンフィクション 1998年世代』(星海社新書)より、「天皇賞(秋) 悲劇と歓喜の二〇〇〇メートル」のパートを抜粋して掲載する。《全2回の後編/前編からつづく

走るのをやめたスズカ、記者の無くなった記憶

 サイレンススズカは東京の二〇〇〇メートルを逃げる馬には絶好の一枠一番にはいった。仮柵が取れて、インコースは最高のコンディションである。どうぞ、逃げきってください。そう言わんばかりの条件が揃っていた。

 レースも武豊が語っていたとおりになった。最初の一〇〇〇メートルを五七秒四の「オーバーペース」で飛ばしたサイレンススズカは二番手を大きく引き離していた。三コーナーをまわり、歴史的な逃げきりになるなと思っていたとき、事故がおきる。走るのをやめたサイレンススズカは痛い脚をかばうようにして四コーナーの奥へと消えていった。左前肢の手根骨粉砕骨折。獣医師の診断は予後不良で、安楽死になったときいたのは最終レースが終わったあとだった。

 サイレンススズカのいない直線、わたしの記憶はない。自分では気持ちを落ち着かせてレースを見ているつもりだったが、取材者としては失格である。

きょうは天皇賞。サイレンススズカだけのレースではない…

 記憶が戻るのは地下の検量室前である。

「よっしゃあー!!」

 沈んでいた空気を切り裂くように、柴田善臣の雄叫びがあがった。それに合わせて、周囲から拍手がおきた。勝者のオフサイドトラップが凱旋してきたのだ。

 ああ、そうだ。きょうは天皇賞だ。サイレンススズカだけのレースではない……。

 オフサイドトラップの関係者を見ながら思ったことはよく覚えている。

 オフサイドトラップは屈腱炎という競走馬としては致命的な病を克服して、ようやくGⅠに勝ったのだ。関係者のよろこびはよくわかる。七歳で天皇賞優勝は史上初という快挙だった。遅咲きの天皇賞馬と思っていたカシュウチカラもホウヨウボーイもアンバーシャダイもキョウエイプロミスもモンテファストも六歳だった(その後、二〇〇九年の秋に八歳のカンパニーが天皇賞に勝った)。

【次ページ】 勝ったオフサイドトラップが紡いだ物語

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