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中学日本代表・4番は大阪桐蔭で…「ストレスで15kg減」から最強世代のレギュラーをつかんだ日「『もう1回、桐蔭でやれ』って言われたら…」
posted2022/10/12 11:03
text by
田口元義Genki Taguchi
photograph by
Genki Taguchi
大阪桐蔭にはひとつの“定説”がある。
1桁の背番号を付ける選手がほぼ固定であること。投手陣の調整や故障者が生じた際には当然変更はあるが、基本的にレギュラーメンバーの顔触れが変わることはない。
そんな不文律のあるチームにおいて、石川瑞貴は控えから1桁を勝ち取った、成り上がり選手だった。
「とにかく、そこには貪欲でしたね。レギュラーを獲りたい、1桁を付けたいって。そのこだわりは、すごく強かったです」
大阪桐蔭入学時は「ちょっと尖ってた」
石川は入学前から大阪桐蔭に想いを馳せていた。小学校時代に所属していたソフトボールチーム、庭代台サニーズで3学年上だった青柳昴樹(元DeNA)がその名門校に進むと、「俺も桐蔭でやりたい」と背中を追った。
そこには家族の協力もあったのだと、石川は言う。住吉ボーイズに所属していた中学時代、祖父が経営する工場で、同じ職場で働く父が敷地内にマシンを設置するなどバッティング練習ができる場所を作り、息子のために付き合ってくれたのだという。それがボーイズリーグの日本代表で4番バッターを任されるまで力を付けられたのだから、石川が貪欲にならないわけがなかった。
「周りの支えっていうのが本当に大きくて。自分が頑張れたのはそういう部分もあります」
監督の西谷浩一の目に留まり、念願の大阪桐蔭への入学を決めた石川ではあったが、当初は「ちょっと尖ってた」という。
中学時代の実績からしても、矜持を持つ気持ちも納得できるが、そんな自分の幼さに気づくまで、さほど時間はかからなかった。
初めての紅白戦でホームランを放ちアピールに成功したが、そこから全く打てなくなった。力強いスイングと飛距離に自信があったはずが、バッティング練習で「飛ばそう、飛ばそう」と意識すればするほど力んでしまう。石川は自分のスタイルを見失っていた。