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「野茂のボールを数十球受けると手のひらがパンパンに」同級生捕手が明かす球児・野茂英雄伝説「美術の授業で描いた将来の夢は…」
posted2022/08/31 17:01
text by
芦部聡Satoshi Ashibe
photograph by
Asahi Shimbun
Sports Graphic Number1009号(2020年8月20日発売)の記事『[同級生が明かす素顔]英雄が無名の高校球児だった頃。』を特別に無料公開します。※肩書きなど全て当時のまま
1985年7月の全国高等学校野球選手権大阪大会2回戦。大阪府立成城工業の2年生投手である野茂英雄は生野を相手に完全試合を達成し、その名を知られることになった。だが、PL学園、上宮などの強豪私学がしのぎを削る大阪では、野茂の力投があっても甲子園は遥か彼方の夢の場所。全国的には無名の存在だった高校時代のトルネードはどんな選手だったのだろうか。
野茂の速球よりも怖かったのは…
「中学時代の先輩が野球部にいたこともあって、野茂は体験入部というかたちで入学式の前から野球部の練習に参加していたんです。それを知らない僕はユニフォーム姿の野茂を見て、『あの先輩、めっちゃデカいな』と。身長はすでに180cm以上あったし、みんなから頭ひとつ抜けていた。その後、よくよく話を聞いたら同級生ということで、さらに驚きましたね」
野茂とバッテリーを組んでいた内山登さんは、高校で本格的に野球を始めたという。初心者がいきなり超高校級の剛速球を受けることになったのだ。
「無我夢中でやっていたせいか、恐怖心はあんまりなかったですね。野茂の速球よりも、鬼のように厳しい監督さんのほうが怖かったというのもある(笑)。マウンドでの凄さは当然ですが、目に焼き付いているのはキャッチボールですね。徐々に距離を伸ばしていくんだけど、30m、50mになっても野茂の球はまったく垂れない。遠投でも山なりにならず、まっすぐにビシッとグローブに飛び込んでくる。そんな球を投げるのは野茂ひとりだけでした」
授業中は、野茂はだいたい寝てましたね
グラウンドでは並外れたセンスを発揮していても、ひとたび野球から離れたら年齢相応の男子だったと内山さんは振り返る。