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プルシェンコ発言「選手除外は差別だ」は妥当か?“金メダルなし”にプーチンが激怒した日《ロシアこそ国家とスポーツを結び付けてきた皮肉》
text by
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph byGetty Images
posted2022/03/03 11:30
ロシアの世界選手権からの除外を「差別」だと訴えたプルシェンコと、握手を交わすプーチン
国籍による処分が差別的だという批判が見られる一方、それともどこかつながる形で、プルシェンコの主張にもあるように、“スポーツと政治は切り離されるべきだ”という批判も強い。
東京五輪で一部容認されたが、オリンピックもまた、政治的、宗教的、人種的な宣伝活動は認めない、としてきた。政治的に中立であるべきだという原則は今日も変わっていない。実際はその時どきの世界の情勢や開催国を巡る状況から、政治的な視線がまったく関与してこなかったわけではない。
一方で、「国威発揚」という言葉がしばしば使用されてきたように、競技の成績を国家の地位と結びつける動きは昔からあって、今もその要素は残っている。
プーチン首相(当時)は五輪で不振だったロシア選手を批判
そもそもロシアこそ、政治とスポーツを強く結びつけてきたのは否めない。
例えば、2010年バンクーバー五輪でのロシアはメダル獲得数が2006年トリノ五輪より大幅に減少した。とりわけフィギュアスケートは不振を極め、金メダルなしに終わり、ロシアが最も強いとされていたペアでメダルを逃したことがクローズアップされた。大会後、プーチン(当時は首相)が関係者を集めて一喝したのをはじめ、政界の要人たちから厳しい批判と結果を求める声がスポーツ界に浴びせられたし、そのための支援も国家的に行なわれた。国家としての威信のためにほかならない。
政治とスポーツとが切り離され、スポーツが選手たちの交流する機会、その結果としてさまざまな国をつなぐ「回路」として存在することは理想的であり、望ましい。どうしても政治がかかわってくる、無縁とは言っていられない部分があるのも確かだが、少なくとも理想として、建前であっても目指すものとして掲げていくことには意味がある。また、政治とは切り離され、スポーツがスポーツとして営まれるためにはスポーツ界自体の努力であったり、そうした理想を体現するための強い意思が必要となってくる。