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《センバツ名勝負》清原桑田のPL撃破“メガネの県立校エース”に告げられた右肘の余命「いずれ爆発すると言われていた」
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byKatsuro Okazawa/AFLO
posted2022/03/21 17:00
1985年センバツ準々決勝で、優勝候補のPL学園を破った伊野商業。エース渡辺智男が清原和博から3三振を奪った
「なんて奴や」
それが中妻章利(現在の姓は中内)の、渡辺への第一印象だった。伊野商野球部の1年生は朝練の前、上級生よりも早く来てグラウンド整備のためにトンボを掛けなければならない。だが、渡辺はいつもみんなより1時間以上遅れてきた。自宅が遠いことを差し引いても呆れるばかりだった。だから中妻ら他の1年生たちは最もデコボコの部分を渡辺に残して自分たちは引き揚げた。遅れてきた渡辺は1人、悪びれるでもなくトンボを引いていた。
「だって、しゃあないやん」
遅刻を問い詰めてもこう笑うばかり。上下関係からもチーム内競争からも埒外にいて、どこか達観していた。
ただ、ひとたびグラウンドに立つと渡辺はまた別の意味で異質だった。1年生が初めて打撃練習をさせてもらった日、左打席の渡辺は白球を校舎まで飛ばした。その年、監督に就任したばかりの山中は思わず、そのメガネの1年生を捕まえて聞いた。
「お前、どうして伊野商にきたの? なんで明徳や高知商に行かなかったんや?」
渡辺が中学で肘を痛めたということは知っていた。だから、最初は投手をやらせなかった。だが、中妻や渡辺らの年代にはエースを任せられる投手が見当たらなかった。
「最初は他の子に優先的に投手をやらせたんですがダメでした。そこで智男に投げさせてみたら投手としてもモノが違った。本格的に投球練習をやらせたのは2年生からです。肘との勝負ではありましたが……」
剥がれた骨片は渡辺の肘の中を漂っていた。梅雨時にはひどく痛むことがあった。収まりどころが悪い時には肘が「ロック」されたように曲がったまま動かせなくなった。ただ、それ以外は投球しても痛みを感じることはなかった。だから渡辺はまた投げ始めた。
なぜ渡辺の肘は壊れたのか…捕手・柳野の証言
伊野商は渡辺というエースの出現によって一躍、県内の強豪となった。そして84年の秋、翌春の甲子園へとつながる四国大会を勝ち進んでいった。
四国大会1回戦に勝った後、渡辺より1学年下の外野手だった柳野浩一は監督の山中にこう告げられた。
「次の試合からはお前が捕手をやれ」
四国大会で打ち破らなければならない徳島・池田などの強豪は足の速い選手を揃え、盗塁を武器にしていた。渡辺頼みの戦いが続く中、少しでもエースの負担を軽くするために指揮官はチームで一番肩の強い柳野を急造捕手にしようと考えたのだ。
「先輩でもよう捕らんかった智男さんのボールを僕が捕れるのか。無我夢中でやるしかなかった。智男さんのストレートはキレがあって本当にホップするんです。野茂(英雄)のボールは重くてズドンとくるんですが、それとは全く違う種類の球でした」
後に社会人・新日鉄堺で野茂とバッテリーを組んだこともある柳野は、渡辺から受けた衝撃を今でも覚えている。
投球練習。下級生の柳野は学校で購入した薄い革のミットしか使えなかった。空気抵抗を減らすスピンがかかり、打者の手元で伸びる渡辺の速球が容赦なくオンボロミットに突き刺さる。突き指は当たり前。手をテーピングでぐるぐる巻きにして受け続けていると次第に手の感覚がなくなっていった。ミットを外した柳野の左手はいつも右手よりも大きく腫れていた。
何よりその球の威力を物語っていたのは柳野が右手を添えて捕球していたことだ。むき出しの右手は打者のファウルチップが当たれば骨折してしまうため、普通は体の後ろに隠すように指導される。だが、柳野は骨が折れるのを覚悟で右手を添えていた。
「骨折の心配なんてしていられませんでした。そうしないと智男さんのボールは捕れませんでしたから」
渡辺の肘がなぜ壊れてしまったのか。ミットに伝わる衝撃が柳野に教えてくれた。