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内田篤人が「勝って兜の緒を締めよ、はたまに意識するくらいで」と語る真意… 育成年代への還元案とシャルケ復活への願い
posted2022/02/05 11:03
text by
ミムラユウスケYusuke Mimura
photograph by
Etsuo Hara/Getty Images
――監督の仕事としては選手たちをマネージメントする作業が大切ということですが、リーダーシップを感じたのはどの監督でしたか?
「たとえば、少ししかやっていないけど(現ライプツィヒ監督の)テデスコ(*1)も……」
(*1 ドイツの監督ライセンスの最高位にあたる「フッスバル・レーラー」の講習会を首席で修了。同期にナーゲルスマン監督もいるなかで、その成績だった。テデスコは31歳でドイツ2部のアウエの監督にシーズン途中に就任し、降格の危機にあったチームを残留させた。その手腕が評価され、翌シーズンからシャルケの監督に就任。前のシーズンに10位だったチームを2位へ導いた。その後、スパルタク・モスクワの監督を経て、今シーズン途中からライプツィヒの監督に就任している。彼が就任したシーズンの8月に内田は退団している)
内田から見た監督それぞれのリーダーシップとは
――テデスコのリーダーシップとは?
「若くして(31歳で)シャルケに来たけど、選手に『オマエたちと一緒にヨーロッパの舞台にチャレンジするぞ!』という態度を見せて、みんなを引っ張った熱血漢だった。選手をマネージメントするというよりも、彼自身が中心になり、みんなを巻き込んでいくスタイル」
――監督でありながらもキャプテンのような感じでしょうか?
「そういう感じに近かったかな。若くて、選手と年齢差もなかったし。あとは、人の心をつかむと言う意味ではステーフェンス(*2)。経験もあるし、選手ごとにきちんと対応していたかな。ステーフェンスが就任した当初、オレをあまり使ってくれない時期があったでしょう?」
(*2 オランダ人ながら、シャルケの歴史を語るうえで欠かせない監督だ。シャルケの監督としては、1997年にUEFAカップを制覇し、2001年と2002年にドイツ杯(DFBポカール)を連覇。2012年12月にシャルケの監督を解任されたものの、その後にシャルケの暫定監督を2回、シュツットガルトの暫定監督も2回、ホッフェンハイムの暫定監督も1度務めている)
――彼はラングニックの後任として2011年9月27日に監督に就任しましたが、この年の末の公式戦で内田さんは3試合続けてベンチ外。当時はそれが悔しくて、グラウンドに出て涙を流しながら走っていたと明かして話題にもなっていましたね。
「ただ、最終的にはオレのことを信頼して、使ってくれたからね。監督をやめたあとにも、たびたび(暫定監督として)シャルケに呼び戻されたくらいの人だし」
――ある選手を起用しなくなっても、その選手が復調すればチャンスを与える監督だと?