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「クラブから高校へ来て、最初は戸惑いました。でも…」ユース昇格を逃した中村俊輔が桐光学園で学んだものとは《選手権準優勝》
text by
戸塚啓Kei Totsuka
photograph byAFLO
posted2022/01/09 17:02
1997年1月8日に行われた全国高校サッカー選手権大会決勝、旧国立競技場で市立船橋と対戦した桐光学園の中村俊輔。独特なキックのフォームは、このころにはすでに完成されていた
「高校サッカーで学べることはたくさんあります」
2対0で全国への切符をつかんだ試合後、僕は中村を囲む記者に加わった。キックについて聞かれると、「けっこう練習してるんです」と遠慮がちに話した。選手権出場を決めた喜びに溢れているわけではなく、自分のプレーを冷静に分析する姿に、それも納得できるプレーよりできないプレーについて熱っぽく語る姿が、とても印象的だった。
色々な話を聞いた。中学までマリノスのジュニアユースでプレーしていたが、ユースへの昇格がかなわなかったことを教えてくれた。「クラブから高校へ来て、最初は少し戸惑いました」と、中村は苦笑いをこぼした。「でも」と続ける。
「高校サッカーで学べることはたくさんあります。ここから成長したい気持ちは強いです。ジュニアユースでは身体が大きくなかったんですけど、いまは筋トレをやったりしています」
クラブユースの選手たちは、当時から技術の水準が高かった。ジュニアユース代表やユース代表には、クラブユースの選手が絶えず選出されていた。
ところが、日本リーグで活躍する選手となると、一気に少数派になってしまうのだ。93年にJリーグが開幕し、ヴェルディやマリノスには下部組織出身の選手が多く在籍していたが、彼らの主戦場はプロ野球のファームに当たるサテライトだった。
それだけに、中村の経歴が僕には新鮮だった。マリノスのジュニアユースで止める、蹴るといった基礎技術をしっかりと学び、高校の部活でフィジカルとメンタルを鍛えられている彼は、Jリーグ開幕後の選手育成の形になるのでは、と考えたのだった。
高校3年時には年代別代表でも主力選手に
96年末に開幕した高校選手権でも、桐光学園は神奈川県予選を勝ち抜いた。3年生になった中村は、背番号10を背負っている。インターハイでベスト4に食い込んでいたチームのエースとして、大会前から注目を集めていた。
高校選手権に先駆けて、中村は国際舞台を経験していた。
96年10月に行なわれたアジアユース(U-19)選手権に、数少ない高校3年生としてメンバー入りしたのだ。宮本恒靖、戸田和幸、明神智和、柳沢敦らとともに日の丸を背負い、2週間で6試合を消化する過密日程を乗り切った。全試合に出場し、5試合に先発したのである。