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落合博満“夫人”が明かした「睡眠導入剤っていうのかしら…落合も私も毎晩飲んでいるの」11年前、番記者が見た“落合中日が終わる予兆”
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2021/11/03 17:03
04年から11年まで中日の監督を務めた落合博満。すべての年でAクラス入り、セ・リーグ優勝4回、日本シリーズ優勝1回を果たした
「聞いたか?」
関係者は誰もいないプレスルームを見渡すと、声を潜めて意味ありげに言った。
「西川さん、今年で退任するみたいだぞ……」
球団社長の西川順之助が、その座を退く――もし本当ならば、それは終わりの予兆だと言えた。
球団親会社の中日新聞は、もともと2つの新聞社が合併して設立された。愛知出身の政治家・大島宇吉が創刊した新愛知新聞と、長野生まれの小山松寿による名古屋新聞である。その複雑な生い立ちゆえ、1942年の戦時統合によって合併創刊された後も本流を奪い合う大島派と小山派の対立が続き、その派閥争いは球団の歴代監督人事にも影響を及ぼしていると囁かれていた。
星野は、とりわけ前オーナーの大島宏彦ら大島派から寵愛され、長く実権を握った。
一方で、2001年に球団社長となった西川は、現オーナーの白井文吾とともに小山派であった。星野から山田久志へと監督を交代した後に、大島派からアレルギー反応の強かった落合を次の監督に招聘したのは、星野色を一掃するためだと言われていた。
三重に生まれ、早稲田大学を出た西川は、中日新聞で記者になってからは専らバレーボールの世界に身を置いた。野球は門外漢であるゆえか、それとも大柄な身にまとった生来の大らかさゆえか、現場のことはもちろん、ドラフトや外国人選手の補強など、球団の編成に関しても全て落合に一任した。白井とともに世論から落合を擁護し、本社内に渦巻く批判からの風除けにもなった。だが、2007年に日本一になって以降は、球団の赤字経営が指摘されるようになり、西川自身に対する本社からの風当たりが強くなっていた。
落合は2009年から新たに球団と3年契約を結んでいた。それが満了となる2011年を前にして西川が去ることになれば、落合にとって大きな喪失であることは間違いない。関係者が意味ありげに言ったのは、そういう事情を全て含んでのことだった。
「私、こうしちゃいられないわ」
たしかに忍び寄っているものがあった。私は眼下で繰り広げられる、もどかしいゲームを見ながら、落合はこのことを知っているのだろうか、と思った。
そのときだった。
「ほら、打ってえ!和田さあん!」
隣にいた夫人が椅子から立ち上がった。
グラウンドではまた中日の攻撃が始まっていた。夫人はガラス窓など隔てていないかのように、目の前のゲームに没入していた。先ほどの嘆き雨は嘘のように晴れ上がり、八の字の眉は跡形もなくなり、むしろ逆に跳ね上がってさえいた。
ワッというスタンドの歓声がガラス窓を揺らした。中日が投手戦の均衡を破ったのだ。
「私、こうしちゃいられないわ。ちょっといってくる!」
メガホンを振り上げた夫人はそう言うと、部屋のドアを開け、熱気に満ちた客席へと飛び出していった。<前編から続く>