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ヤンチャな少年時代を過ごした西田有志をつなぎ止めたバレーボール…走り続けた21歳の“休養期間”は吉と出る?《東京五輪》
text by
岩本勝暁Katsuaki Iwamoto
photograph byFIVB
posted2021/07/23 11:04
主将・石川祐希とともにチームで大きな期待を背負う西田有志。19年W杯で見せたような“爆発”を東京五輪の舞台でも見せられるか
最高到達点351cmを生み出す弾力性のある筋肉は、バスケットボールの実業団でプレーした経験を持つ両親からの賜物だ。西田が歩んできたアスリートとしての道のりは、2人の後ろ盾なくして語ることはできない。
「ヤンチャはヤンチャ。やりたいことをやらないと気が済まない。それくらいヤンチャ」
手のかかる子どもを厳しく躾け、育て、たっぷりの愛情を注いできた。母の美保さんが回顧する。
「私がフルタイムで働いていたので、帰ってくるのはいつも夕方の5時半くらいでした。有志が小1の終わり頃からその状態だったから、いつも近所の人に面倒を見てもらっていたんです。そうしたら、田んぼの中を走り回って怒られたり、そんな電話が毎日のようにかかってきた。『すみません、怒ってください』って。ずっと、そんなんでした」
中学バレー部での“ギャップ”
中学に上がると、バレーボール漬けの生活に拍車がかかった。しかし、進学した三重県いなべ市立大安中のバレーボール部は、西田を除いて全員が初心者。手ほどきを受けられる指導者もいなかった。練習中にコートの上で寝転がっている者もいたほどだ。ただ一人、西田だけが上を目指していた。
ブラスバンドの先生が顧問だったこともあり、西田が率先して練習メニューを考えた。さりとてチーム内の意識はバラバラ。試合を見に来た美保さんが「もっとこうやらな」と熱く語れば、隣にいた他の子の母親から「うちの子にそんなことやらせなくてもいい」と咎められた。とっさにマズいと感じた。「1年生のときは、その段階で親の温度差がはっきりしていた」と父の徳美さん。それ以来、両親は試合会場でもその親と並ぶことはなく、対角線上から試合を見るようになった。
西田のストレスも溜まっていた。友人関係が変わっていくのも当然の流れだった。素行が悪い者とつき合うことで、それなりの快楽を得られたのだろう。徳美さんは「あの頃が一番危なかった」と眉をひそめる。ただ、美保さんは、そういう友人とつき合うことを一方的に否定しなかった。
「一緒にいるとすごくいい子。私たちは合うし、有志も合う。だから、その子たちとつき合うのはかまわない。ただし、悪いことは悪い。『あんたは絶対にしたらいかん』と言っていました」
ある日のこと、その友人が家に遊びに来ると聞いた。美保さんは仕事で不在だった。不安が頭をよぎった。「悪いことをしたら、その子の家まで行くからな」。それだけを告げた。ところが帰宅すると、思いもよらぬ出来事が待っていた。西田とその友人が、母のためにケーキを作って待っていてくれたのだ。誕生日でも母の日でもない、正真正銘のサプライズだった。
「ありがたいですよね。でも、それっきり。あとはヤンチャなことしかしていません」