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<ウイグル問題>北京五輪ボイコット論で思い出す 「41年前モスクワ五輪の悪夢」“不参加”を決めたJOCの悲しい本音
text by
近藤正高Masataka Kondo
photograph byKYODO
posted2021/04/24 11:01
モスクワ五輪、男子1500メートルで優勝したセバスチャン・コー(イギリス)のゴール。サッチャー首相の勧告に反し、イギリスの選手たちはモスクワ五輪に参加した
西側陣営も必ずしも足並みをそろえたわけではなく、イギリス、フランス、イタリア、オーストラリアなど参加した国も少なくない。なかでも近代スポーツ発祥の国であるイギリスは、サッチャー首相がボイコットを強く勧告したにもかかわらず、大部分の選手は政府のスポーツに対する不当な干渉であるとして従わなかった。選手たちは大会への不参加は、むしろソ連の不法な侵略行為を非難するチャンスを失うことだと判断したのである(森嶋通夫『サッチャー時代のイギリス』岩波新書)。実際、イギリスは、フランスなどとともに開会式の行進では抗議の意を込めて選手が参加せず、国旗・国歌も大会中は表彰式も含めて使わなかった。
JOC委員37人中31人が「ボイコットは意味がなかった」
こうして見ると、ボイコットせずとも、オリンピックにはそれにふさわしい政治的メッセージを送る手段があるのではないかと思えてくる。IOCも現実政治に対し、場合によっては積極的にアクションを起こしてきた。たとえば、アパルトヘイト(人種隔離政策)を行ってきた南アフリカに対しては、1964年の東京五輪、1968年のメキシコ五輪と参加を拒否、1970年にはついに除名処分とした。同国がIOCに復帰したのは1991年にアパルトヘイト根幹法を廃止してからである。また、1998年の長野冬季五輪と2000年のシドニー五輪では、古代オリンピックの故事にならい、大会期間中の停戦(民族紛争の休止)を呼びかけて実現している。もっとも、現在のIOCは、中国への態度にせよ、また新型コロナウイルス感染拡大のなかで東京五輪の開催に固執していることにしてもそうだが、国際情勢への対応がどうも鈍いような印象を抱くのだが……。
なお、前出の清川正二は、モスクワ五輪から4年が経った1984年9月、JOC総会において出席した全37人の委員に、改めてボイコットについて意見を聴いている。そこで清川が出した3つの質問のうち「手段としてオリンピック大会をボイコットすることは意味があると思うか」に対しては31人が「意味がない」と答えた。さらに「日本はモスクワ大会をボイコットしたが、今日から考えてみて、あの場合ボイコットすべきでなかったと思っているかどうか」との質問には、26人が「ボイコットすべきでなかった」と回答。さらに「モスクワ大会をボイコットしたことが、その後の日本のスポーツ界に悪影響を及ぼしていると思うかどうか」との質問に対しては、「悪影響があり、現在もその後遺症が残っている」と答えた委員が27人いたという。このときの委員のなかにはボイコット決定時のJOC総会で表決に参加した委員も多数含まれていた(清川正二『スポーツと政治』ベースボール・マガジン社)。
政治的な効果という意味では、モスクワ五輪のあともソ連軍はアフガニスタンにとどまり、米国の呼びかけたボイコットはほとんど効果をもたらさなかった。その上、続く1984年のロサンゼルス五輪ではソ連が東欧諸国とともに報復手段としてボイコットする。ソ連がアフガンから完全に撤兵したのは、モスクワ五輪から10年近くもあとの1989年のことだ。その2年後にはソ連という国そのものが消滅した。
北京冬季五輪をめぐっても開幕まで議論は続くことだろう。だが、単に参加か不参加かという2項選択にするのではなく、中国政府に対してオリンピックやスポーツ独自の形で、なおかつ効果的に訴えかける方法を、さまざまな視点から検討するべきではないだろうか。
(【続きを読む】「お前は国に従いなさい」41年前モスクワ五輪ボイコット、人生を狂わされた選手たちの“その後” へ)
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