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<ウイグル問題>北京五輪ボイコット論で思い出す 「41年前モスクワ五輪の悪夢」“不参加”を決めたJOCの悲しい本音 

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近藤正高

近藤正高Masataka Kondo

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posted2021/04/24 11:01

<ウイグル問題>北京五輪ボイコット論で思い出す 「41年前モスクワ五輪の悪夢」“不参加”を決めたJOCの悲しい本音<Number Web> photograph by KYODO

モスクワ五輪、男子1500メートルで優勝したセバスチャン・コー(イギリス)のゴール。サッチャー首相の勧告に反し、イギリスの選手たちはモスクワ五輪に参加した

 こうした議論のあと、委員長の柴田が「結論から申し上げると、第22回オリンピック競技大会に対するナショナル・エントリーの申し込みは無理である」との見解を示す。その理由として、モスクワ五輪をめぐる状況の混乱、また諸外国、とくにアジア諸国がほとんど不参加だという現実、そして体協理事会決議や政府見解を無視するわけにはいかないことが挙げられた。その上で、委員長見解に賛成か反対かを問う形で(五輪に参加するか否かを直接問うのではなく)委員の挙手により採決が行われ、賛成29、反対13(総会後の公式発表での数字。実際には賛成したのは31名であったという)となり、五輪不参加が決まったのである。

 それでも柴田は「6月9日のIOC理事会までに情勢が変わり、参加できるような状況が生じた場合はエントリーする」と含みを残した。また、総会後には《今後、IOCが何らかの形で世界中の参加出来ない若者のために道を開いてくれることを願望している》と述べ、個別参加の容認に望みを託してもいる(『朝日新聞』1980年5月25日付朝刊)。

 とくに金メダルが期待されたレスリングや女子バレーボールは、JOCの決定後も個別参加の道を模索した。当時、日本バレーボール協会の専務理事だった松平康隆は、清川正二の仲介により、IOCのキラニン会長に個別参加を認めてほしいと直接訴える機会を得た。だが、キラニンは話は聞いてくれたが、とくにリアクションはなかったという。結局、6月10日、IOCは前日からの理事会で個別参加は認められないとの方針を決定し、日本の全面不参加が確定する。

イギリス選手はサッチャーに従わなかった

 いま振り返ってみると、モスクワ五輪をめぐる日本国内の動きでもっとも問題だったのは、ボイコットを行ったこと以上に、JOCが自主的に判断を下せなかったということではないだろうか。JOC総務主事で体協理事だった岡野俊一郎はこれを重く見て、不参加決定直後より自分と同じ昭和一桁世代のスポーツ関係者たちとも連携し、JOCの体協からの独立を目指して動き始める。実現にいたったのは1991年のことであった。

 モスクワ五輪には結果的に、NOCのある147ヵ国のうち81ヵ国が参加した。参加しなかった66ヵ国のうち、米国をはじめカナダ、西ドイツ、日本、韓国、中国などがボイコットに同調した。ただ、不参加だった国のすべてが米国の呼びかけに応じたわけではなく、財政的な理由や選手の実力がオリンピックのレベルに満たないとの理由で参加できなかった国もあった。

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