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【FAウラ話】巨人との“競争”から降りた星野仙一、ダルビッシュ電撃トレード、稲葉の心に野村克也の教え
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NumberWeb編集部Sports Graphic Number Web
photograph byJIJI PRESS
posted2020/12/10 17:01
中日は1999年オフに工藤公康のFA獲得に動いていたが、指揮官・星野は途中で方針を変更。生え抜き選手たちへの思いを口にした(右は野口茂樹)
野村克也の教えを日本ハムで
<名言3>
種をまいて育ててもらったのがヤクルト、花を咲かせてもらったのがファイターズ。
(稲葉篤紀/Number865号 2014年11月13日発売)
1995年、ドラフト3位でヤクルトに入団した稲葉は野村克也に打撃センスを買われ、1年目から一軍で出場を重ねた。初打席初本塁打を放つなど輝かしいプロ野球人生のスタートを過ごすと、2年目にはレギュラーに定着し、3年目にはリーグ優勝にも貢献。10年間ヤクルトの顔としてプレーした。
ヤクルトを離れたのは2005年。移籍先はFA宣言選手の獲得に消極的な日本ハム(現在に至っても、他球団出身選手のFA加入選手は稲葉のみ)。そんな大きなプレッシャーが稲葉にのしかかったが、2年目には日本一に貢献し、日本シリーズではMVPを獲得している。日本ハムでも10年間、主力として活躍し続け、14年限りで現役を引退した。
「移籍した時はパ・リーグのピッチャーのことなんてひとつも分からなかったんですけど、2年目から結果を残せたのはやっぱり野村(克也)監督の教えを生かせたからだと思います」
野球で生きる術や考えることの大事さをヤクルトでは学び、それを応用したのがファイターズでの時間だった。お世話になった指導者、チームへの恩を忘れない人格者・稲葉らしい言葉である。