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米選手団長「俺が死んだらここに骨を埋めて」 世界が愛した名建築「国立代々木競技場」が世界遺産に? 

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磯達雄

磯達雄Tatsuo Iso

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photograph byNanae Suzuki

posted2020/11/11 06:00

米選手団長「俺が死んだらここに骨を埋めて」 世界が愛した名建築「国立代々木競技場」が世界遺産に?<Number Web> photograph by Nanae Suzuki

建築界のレガシー「国立代々木競技場」は二度目のオリンピックをむかえる今なお高い評価を得ている

48歳で大役を任された建築界のスター丹下健三

 設計者は丹下健三である。丹下は1913年生まれ。戦中に行われた大東亜建設記念造営計画設計競技で1等を射止めて名を挙げ、戦後は出身である東京大学で教鞭を執りながら建築の設計を行った。初期の代表作は、広島平和記念公園(竣工1955年)や香川県庁舎(同1958年)など。前者は設定された敷地の外側にある原爆ドームに向けて軸線を取るという大胆な構想で、復興都市のシンボルゾーンをつくりあげたもの。後者はモダニズムの建築と日本の伝統的な建築のデザインの統合を果たしたもの。いずれも戦後を代表する傑作とみなされている。

 国立代々木競技場の設計を依頼された1961年の時点で、丹下はまだ48歳だったが、既に日本の建築家として最も目覚ましい活躍を見せていた。

 なお、1958年のアジア大会に合わせて先に建設された国立霞ヶ丘陸上競技場は、建設省内部の営繕部が設計した。代々木競技場も設計する腹づもりだったが、東京五輪の施設特別委員長である岸田日出刀による差配で、丹下に決まっている。他の五輪施設でも、駒沢体育館の芦原義信、江の島ヨットハーバーの山田水城、選手村食堂の菊竹清訓など、当時の新進気鋭の建築家を設計者に採用したが、特にこだわったのが丹下の指名だったとされる。岸田は東大建築学科の教授で、丹下はその弟子だった。

丹下が吊り構造に感じていた物足りなさ

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 当時のスポーツ施設のデザイン動向を見ておくと、1960年のローマ五輪では、幾何学模様がそのままドーム屋根の構造となっているスポーツパレス(設計:ピエール・ルイジ・ネルヴィ)が建築として注目を集めた。また、ノースカロライナのドートン・アリーナ(設計:マシュー・ノビッキ、竣工:1952年)や、イエール大学のインガルス・ホッケーリンク(設計:エーロ・サーリネン、竣工:1958年)が、吊り構造の先駆的な建築として実現している。吊り構造とは、下から支えるのではなく、上から吊ることにより、安定した形を成立させる構造方式である。スポーツ施設では、屋根を吊ることで、大空間をより少ない材料で実現することが可能になる。

 丹下はこれらのすばらしさを理解しつつも、足りないものを感じていた。形として閉じていて、静的な印象をもたらすからだ。もっとダイナミックな、開きつつ閉じるような大空間建築を生み出したい。そんな目標を立てて、集ったスタッフに、これまでにない新しいスポーツ施設のアイデアを求めた。

 数多く出された提案から、第一体育館の構造形式として選び取られたのは、2本の支柱を建ててケーブルをかけ渡し、そこから屋根を吊るという、吊り橋のような構造である。スタンドは三日月型で、ずれながら向かい合い、両側が大きな出入口となって、スムーズな入退場を可能とする。巴型の平面を採った吊り構造の建築は、世界で初めてのものだった。

【次ページ】 ドラマチックな光の効果、高揚感をかき立てる天井

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