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36歳越川優にまた驚かされた! ビーチバレーからVリーグへ再復帰、希望したのはマネジメント業?
text by
米虫紀子Noriko Yonemushi
photograph byNoriko Yonemushi
posted2020/11/09 17:01
コロナ禍で大会が中止になった学生のためにイベントを主催した越川優
会場の確保、準備に奔走
全国を9つのブロックに分けて、参加チームを募り、当日は参加チーム同士で試合をしたり、越川や元Vリーガーと一緒にバレーをする機会も作った。
自粛期間には現役選手やOBが、学生たちの力になろうとオンラインで様々な試みを行ったが、実際に人を集めてイベントを行うのはまだ難しいように思えた。しかし越川は、自ら会場の確保など企画の実現のため動き回った。親交のあった元岡山シーガルズの米村信子氏をはじめ、元Vリーガーを中心に協力の輪が広がった。国やJOCの感染防止ガイドラインを元に、安全にイベントを運営する方法を綿密に練った。
感染者数が落ち着かなかった関東や、どうしても会場を確保できなかった東海はやむを得ず中止となったが、その他の7ブロックで8月に実施し、男女計44チームが参加した。
イベントの開会式では、参加した中学生に向けて、越川はこう挨拶した。
「今年の夏は、みなさん初めての経験をしていると思います。特に3年生は、頑張ってきたことを披露する大会がなくなってしまって、本当に残念な思いをしていると思います。私たちは、その残念な思いを消してあげることはできません。ですが、楽しい思い出を増やしてあげることはできると思い、このイベントを企画しました。今日はぜひ、1日楽しんでいってください」
その後、「YuMe〜夢〜バレーフェスタ2020」のZoomでの開催も決まった。
そしてこの夏、もう1つサプライズが。越川のインドアバレーボール復帰である。8月上旬、V.LEAGUE DIVISION2(V2)に所属するヴォレアス北海道に加入することが発表された。
五輪で「勝つ」ために選んだ海外移籍
越川は、初めて出場した2008年の北京五輪以降、常に決断の軸に“オリンピック”を置いてきた。それも「オリンピックに出る」のではなく「オリンピックで勝つ」ための道を選んだ。
「北京の時は、出ることを目標にチームとしても個人としてもやっていて、1勝もできずに帰ってきた。オリンピックで勝とうと思ってやってきたチームと、出たいと思ってやってきたチームの差を感じた。だから次はオリンピックで結果を出すために勝負しようと、北京後はずっとやってきました」
海外に移籍したのも五輪で勝つためだった。ただ、今でこそ石川祐希(ミラノ)をはじめ海外リーグでプレーする選手が複数いて、そうした選手が代表を牽引しているが、当時の評価は少し違った。代表はひたすら国内合宿で鍛錬し、時間を共有することが重視された。越川はイタリアでリーグに出場するため、代表合宿を離れなければならない時期があり、それを当時の代表には理解されなかった。2012年ロンドン五輪世界最終予選のメンバーに、越川の名前はなかった。
海外でプレーすることが代表選考で不利になるならと、越川はVリーグに戻り、14年には代表に復帰したが、石川や柳田将洋(サントリー)といった若手の台頭により、代表は世代交代に舵を切る。五輪は2016年リオデジャネイロ五輪が最後という覚悟でいたが、越川はそこに挑戦することはできなかった。