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ついに取り壊し、原宿駅の木造駅舎はどうなるのか? オリンピックに翻弄された若者の聖地の過去と今
text by
今尾恵介Keisuke Imao
photograph byNumberWeb
posted2020/09/14 11:30
取り壊しが始まった旧原宿駅舎。2度のオリンピックに翻弄され、新たな時代へ突入する。
歴史的地名を次々に破壊した理由
どうやら「町の境界は道路とする」「丁目は皇居に近い方から振る」「地名の表記は簡明に」「当用漢字の範囲内で」などのさまざまな制約をクリアするのが大変で、いっそ「エイヤッ」とばかりに新しい地名を設定した方が面倒がなくていい、という乱暴な思考に陥ったようである。太平洋戦争が終わって、過去の「封建的な伝統」をすべて悪とみなす風潮もそれを助けたようだ。
実際に原宿にお住まいだった70代の知人に聞いた話によれば、区役所による説明会などなく、いきなり「何日から神宮前にする」と通知があっただけだという。もし知らないところで説明会があったとしても、通り一遍の儀式に過ぎなかっただろうことは想像がつく。
住所の表示合理化については旧郵政省や運送会社など実際に配達業務を行うところに加えて、NHKや各新聞社などのメディアも積極的にその推進を訴えた。しかし蓋を開けてみれば、住所をわかりやすくするという目的にしては異様なほど、歴史的地名が破壊されてしまったのである。
オリンピックと歩んだ街、原宿
「住居表示法」の施行を受けてこの原宿も、隣の穏田(おんでん)、竹下町(竹下通りの名に残るが)などとともに、現在の「神宮前」という町名があてがわれた。なるほどその名の通り明治神宮を目指す表参道がまん中を通っているのは確かだが……。
原宿駅は昭和39(1964)年の東京オリンピックで水泳やバスケットボールのメイン会場となった国立代々木競技場の最寄り駅となった。丹下健三の代表作として知られる建物は今も古びていない。
第二体育館も含むこの広大な土地は、それ以前はワシントンハイツという名の米軍専用住宅地であった。戦前は日本陸軍の代々木練兵場で、それを戦後に米軍が接収したものである。競技場に加えて選手村として利用するために返還交渉が行われたが、かなりギリギリのスケジュールとなったそうだ。
ここの住所も今は神南(じんなん)だが、昭和45(1970)年までは神南(かんなみ)町と称した。読みが変わり、その領域も微妙に変化している。昭和7(1932)年の東京市編入より前の同3年以前に遡れば、さらに豊多摩郡渋谷町大字上渋谷の一部と、地名はまったく異なる。
ついでながら原宿駅が開業した明治39(1906)年当時の駅の所在地(竹下口より少し北側)は、豊多摩郡千駄ヶ谷村大字原宿字石田。近現代と呼ばれる100年少々の間に、いかに目まぐるしく地名が変わったことだろう。
これでは『武蔵野』を書いてこの近所に暮らした国木田独歩が突然よみがえったとしても、ただ迷うしかない。
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