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井上尚弥と同門、大橋会長も太鼓判。
“気弱なアンディ”が世界に近づく。 

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栗田シメイ

栗田シメイShimei Kurita

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photograph byOhhashi Boxing Gym

posted2020/03/02 11:00

井上尚弥と同門、大橋会長も太鼓判。“気弱なアンディ”が世界に近づく。<Number Web> photograph by Ohhashi Boxing Gym

トップランク社と契約した平岡アンディ。4月25日、ジムの先輩にあたる井上尚弥の3団体統一戦のアンダーカードに登場する。

誰かと一緒に走りたくて陸上部に。

 英才教育の意味に本人が気づくのはもう少し後の話だ。

 中学では陸上部に入部している。その理由を本人に尋ねると、「1人でロードワークを走るのがツラくて、誰かと一緒に走れば楽しいと思ったから」と笑う。

 陸上競技でも結果を残し、横浜高校時代は中長距離を得意とし国体にも出場。そのセンスは箱根駅伝の名門、東洋大学からもオファーがあったというエピソードからも窺い知れる。

 もっとも高校時代は、ボクシングへの熱量に変化が生まれた転換期でもある。花形ジムに所属し、高校生ながらキャリア6戦で東日本新人王を奪取。天性の素質と幼少期からの“貯金”で獲得した新人王だった。父親譲りの身体能力、手足のバネに、柔軟性のある予測不能なパンチ。久しぶりに現れた中量級のホープとして期待を集める一方で、平岡は強い葛藤を感じながらボクシングと向き合っていた。

「試合内容もないし、思うようなボクシングができない。自分はこんなモノなのか――」

 その後の2年間、ボクシング界で平岡の名前を聞く機会は途絶えた。

高校卒業後、単身アメリカへ。

 4歳から現在までトレーナーとして接する父ジャスティス・コジョ氏が述懐する。

「アンディはボクサーとしては優しすぎる面があって、昔は相手を殴ることすら躊躇していた。試合では、練習でやれていたことが3割くらいしか出せない。その理由が技術面ではないことはわかっていたが、息子がもう一皮むけるために何が必要なのかがわからなかった。強くなるために、家族の夢であったアメリカ行きを勧めたんです」

 横浜高校を卒業後、平岡は単身ロサンゼルスに渡っている。練習生としてジムに顔を出しては、雑用や自分よりも階級の上のボクサーのスパーリングなどを強いられた。日本から来た無名の18歳が、ボクサーとして扱われるまでは相当な時間と忍耐が必要だった。

「よく聞かれるのは、アメリカで何が変わったのかということなんです。ただ、正直にいえばアメリカだから、日本だから、ということはなくて技術的に変わったことはほとんどないんです。基礎や技術的な面は、小さい頃から父と二人三脚でやってきたことがアメリカでも充分通用した。これまでやってきたことを出せれば、世界も遠くない。そういう風な考え方ができるようになり、リングに上がる際に心の持ち方が変わっていったんです」

【次ページ】 ルーツに対する捉え方が変わった。

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