One story of the fieldBACK NUMBER
日大アメフト部の真実、その光と影(前編)
あのタックルが生んだ断層と空中分解。
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byTakuya Sugiyama
posted2019/12/28 19:00
競技以外の面で大きな注目を受けた1年半。日大アメフト部に「在籍した」選手の思いは、千差万別だった。
篠竹の言葉はほぼ指示代名詞だった。
今もそうした声は根強くある。
OBによれば、44年の長きに渡って在任した篠竹はほとんど毎日、選手たちと生活をともにしていて、「オヤジ」と呼ばれていたという。
毎年、学生たちは監督付きのマネージャーを選び、連絡役にしていた。
「あれ持ってこい」「あれをやるんだ」
篠竹の言葉はほとんどそうした指示代名詞だったが、当時の学生たちはそれを間違うことなく察することができたという。
つまりあの時代から、あの場所で築かれてきた伝統に何ら恥ずるところはない。
OBたちにはそうした思いがある。
ただ、かつてならば、その場にいる限られた人しか見られないはずだった瞬間をデジタル動画によって多くの人が共有できる時代、そこに起こったひとつのタックルによって、世の視線がこれまで隔絶されていた日大アメフト部の内部運営や伝統へといっせいに注がれた。
重たい門扉と、石碑の向こう側に人々の目が入ってきた。
逆に言えば、それほどの波紋が広がらなければ、変革のメスは入らなかったのかもしれない。
橋詰は滋賀の地で映像を見ていた。
遠く離れた滋賀の地で、このタックルの映像を見ていた男がいた。
橋詰功である。
当時は立命館守山高校のコーチであり、全くの第三者だったが、ひとめ見てその裏に異様なものを感じたという。
「まだ関係のない立場でしたが、これはただ事ではないな、と。アメフトではあんなことは考えられないことなので。裏で相当なことが起きているんだなと思いました」
この衝撃が、のちに日大アメフト部の新監督に手を挙げる動機となっていく。
事件からおよそ2週間が過ぎた5月22日、宮川は千代田区の日本記者クラブで会見をした。
実名も顔もカメラの前にさらして、あのタックルについての謝罪とそれに至る経緯を語った。
そして自らの未来を閉ざした。
「僕がアメリカンフットボールを続けていく資格はないと思っていますし、この先、やるつもりもありません――」
当時、3年生だった贄田は、部の管理棟の一室で数人の仲間とともにそれを見ていた。
その場にいた誰もが画面のまえで泣いていた。
「人生の決断をした顔でした。アメフトをやる資格がないという言葉、あいつの覚悟が伝わってきました。でも……、それでも……、なんであいつがやめないといけないんだろうと……」