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DeNA戦力外から社会人の頂点へ。
須田幸太が「自分の球」を諦めたとき。 

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日比野恭三

日比野恭三Kyozo Hibino

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photograph byKyodo News

posted2020/01/01 11:30

DeNA戦力外から社会人の頂点へ。須田幸太が「自分の球」を諦めたとき。<Number Web> photograph by Kyodo News

JFE東日本が都市対抗野球で初の優勝を飾った瞬間――その歓喜の輪の中心に、あの須田幸太の姿があった。

待つしかなかった――32歳の無職。

 球団から来季の戦力構想外であると知らされた2018年初秋、須田の頭に浮かんだ選択肢のひとつが、プロ入り前に所属していたJFE東日本に戻って野球を続けることだった。

 まだたしかな方向性は見えていない時期、「戻れたらいいな、ぐらい」の熱量だった。戦力外通告を受けた旨の連絡を古巣の関係者に入れながら、復帰の希望はあくまで軽く言い添えられた。

 ところが、その一言を聞き逃さず、再就職を本気で後押しする人がいた。

 蔵元修一。須田が以前、JFE東日本にいたころに監督を務めていた。すでに社業の一線から退いているが、誰よりも須田の今後を案じ、方々に口添えしていた。

 蔵元だけではない。一般的な物差しでは評価できない前職プロ野球選手を大企業が採るには、多くの関係者による調整が不可欠だった。無職になりかけの当時32歳は、待つしかなかった。

「自分の野球観がいっきに変わった」

 置かれた立場が明らかに変わったのだと、このとき須田は思い知る。

「いままでは、自分が活躍すれば選んでもらえる、(欲しいチームが)勝手に来るだろうって感覚だったものが、仕事がない自分のために誰かが動いてくれて、それに対して自分は何もできないという状況になりました。『戻れたらいいや』ぐらいの気持ちでいたら本当に失礼だし、そんなんで野球をやってたらダメだなって、自分の野球観がいっきに変わった。この恩に報いなきゃいけない、と」

 再びJFE東日本のユニフォームを着られることが決まったが、謝恩の念は重圧と表裏一体だった。

 チームは2年連続で都市対抗出場を逃しており、野球好きの経営陣は「やってくれなきゃ困るよ」と微笑んで、須田への期待を隠さなかった。1度目の在籍時、野球部長が選手に奮起を促すために言った、「(都市対抗に)出られなきゃお前たちの存在意義はないんだぞ」の言葉が自然と思い出されもした。

 だから、南関東第1代表として3年ぶりの都市対抗出場を決めたときの解放感は大きかった。最低限の目標をクリアして、「元プロ」獲得の意義を示せた。

【次ページ】 「“おれはプロだった”感」が滲む……。

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