甲子園の風BACK NUMBER
中谷監督と黒川・東妻の3年間。
智弁和歌山、運命のドラフト会議。
text by
米虫紀子Noriko Yonemushi
photograph byNoriko Yonemushi
posted2019/11/08 08:00
教え子の黒川史陽(左)、東妻純平(右)をプロへ送り出した智弁和歌山の中谷仁監督。ここからが勝負なのだ。
プロで15年間苦労した中谷監督自身の思い。
中谷監督自身も捕手で、智弁和歌山高時代は日本一を経験し、高校3年の秋、阪神にドラフト1位で指名された。ただ一軍に定着することはできず、楽天、巨人と15年間プロの世界を渡り歩いた。
プロの厳しさを嫌というほど知る中谷監督は心を鬼にして東妻に接してきた。以前、このように語っていた。
「プロに行くだけを目標にしているんだったら、もう満足値に立っているかもしれないけど、僕自身が、行っただけで何もしていないというプロ野球人生を送ってしまったので、それだったら行かせない方が、人生的には安定する。
僕自身は(プロに行ったことを)後悔はしていないけども、やっぱり親心というか、かわいい後輩が、今のまま行って、じゃあ果たしてプロで成功するのかと考えると……。とんでもないやつがいっぱいいるところですから、プロは」
投手との会話を増やすために打順を変更。
高校入学と同時に遊撃手から捕手に転向した東妻の2年半は、中谷監督との二人三脚だった。
持ち前の肩の強さと運動神経のよさで、送球や捕球などの技術は練習を重ねるごとに向上したが、ネックとなったのはコミュニケーション力だった。
「あまり人と話さない人見知りなところがあって、それが壁になっていました」と東妻は言う。
投手と密に会話するようにと中谷監督が口酸っぱく言っても、東妻はなかなかそれを実践できずにいた。
「今のボールはどういう意図で行ったのか?」と監督が東妻と投手にそれぞれ聞くと、違う答えが返ってくる。「そら打たれるわ。意思統一ができてないやんか」と監督は頭を抱えた。
そこで最後の夏に向け、中谷監督が打った策は、打順に手を加えることだった。
センバツでは4番を打っていた東妻の打順を、6番に下げた。そうすることで8番に入っている投手の打順と近くなり、自チームの攻撃の間、ベンチで隣に座って会話をするようになった。東妻自身、そうして話すことによる効果を感じたことで、より会話が増えていった。