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川内優輝のプロ転向は、なぜ今?
「オンリーワンのプロランナーに」
posted2019/04/08 08:00
text by
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph by
Kyoto Shinbun/Kyodo News Images
4月になり、2019年度がスタートするとともに、大きな変化を求めた選手がいる。マラソンの川内優輝である。「市民ランナー」から「プロ」への転向という、競技人生において、最大と言ってよいかもしれない決断を下した。
もはや知らない人はいないかもしれないが、改めてその足跡をたどってみよう。
川内の名前が広く世に知られることになったのは、2011年の東京マラソンだろう。このレースで、川内は日本人選手の中では最上位の3位となった。同時に、規定により、同年の世界選手権代表の座をつかんだ瞬間でもあった。
市民ランナー、川内優輝。
その成績が強烈なインパクトをもたらしたのは、川内が公務員としてフルタイムで勤務しながら走る「市民ランナー」であったからだ。にもかかわらず、競技にほぼ専念する体制の整っている実業団チーム所属の選手たちを差し置いて、堂々の結果を出したのである。
その後、ときに実業団から勧誘を受けることはあっても、断って公務員として勤務した。その傍ら、練習よりも実戦によって感覚を磨き続ける川内は、驚くほど多くの大会に出場を続け、国内外のマラソンで活躍してきた。
'17年には3度目となる世界選手権に出場。入賞こそならなかったが、世界選手権では自己最高順位であり、日本人選手中最上位の9位となった。しかも、後半懸命に追い上げて走る姿は観る者に強い印象をもたらし、健闘を称えられた。
だが、そのレースが、こだわり続けてきた市民ランナーからプロへの転身を決断させることになった。
「やれることはやってきたつもりですが、あと一歩で入賞に届きませんでした。自己ベストも約5年更新していません」
当時30歳。トップランナーとして世界をまわれるのはあと10年、いや5年ないかもしれない。のちのち、後悔するのは嫌だ。そうした想いが頭からどんどん離れなくなっていった。
また、公務員としての目標であった「さいたま国際マラソンの実現」が'15年にかなえられるなど、職務においてもひと区切りできる状態にあった。
こうして、決断へと至ったのである。