野球のぼせもんBACK NUMBER
高校閉校、大学中退、26歳でドラ7。
ホークス奥村政稔は攝津正の再来か。
text by
田尻耕太郎Kotaro Tajiri
photograph byKoutaro Tajiri
posted2019/01/16 11:30
ソフトバンク入団会見で「30試合」登板、防御率「2点台」という目標を掲げた奥村政稔。
最速147kmも知る人ぞ知る存在。
波乱に満ちた野球人生ロードを歩んできた。地元の大分・中津商高時代は在校中に閉校が決まり、部員10人の小所帯の野球部でエースを務めた。最速147kmをマークするもチームとして勝ち進めなかったこともあり、知る人ぞ知る存在でしかなかった。
九州国際大学では入学前の3月にホークス三軍との交流試合の先発に抜てきされ、5回パーフェクトの快投を見せる。しかし、大学を中退して、活躍の場を社会人野球に求めた。
三菱重工長崎でも力は十分に通用してやがてエース格となったが、在籍4年目のオフにチームが休部扱いとなりMHPS横浜と統合。三菱日立パワーシステムズへ“異動”することになった。奥村は長崎にいた頃に結婚しており、現在は2歳になる男の子もいる。横浜には当初家族で移り住んだが、2年目だった昨年は単身赴任を選んでいた。
「僕1人の収入ではきつくて。妻は看護師をやっているんですが、横浜では保育園もなかなか見つからず、大分に戻ってもらうことになったんです。周りの人には『アマチュア野球なのに、家族を犠牲にしてまでやることなのか?』と言われたこともありました。だけど妻は反対せずに、逆にいつも背中を押してくれました」
26歳になって落ち着けた理由。
勝負をかけた2018年、奥村はついにプロ野球の扉を開いた。ただ、何か特別な実績などを残したわけではなかった。逆にいえば、それ以前に十分な活躍を見せていた。都市対抗や日本選手権のマウンドは毎年のように踏んでいたし、最速154kmだって'15年にマークしたものだ。
「僕としても技術的な部分で昨年から何かを変えたという意識はないんです。ただ、プロ野球って大体24、5歳までにドラフトにかからないと厳しいのかなと思っていた。以前はネット裏にスカウトの姿を見つけると必要以上に力んでしまった。戦う相手を間違っていたんです。だけど、26歳になった昨年は、自分の中で『もうないな』と感じるようになっていた。そうすると落ち着いて試合に臨むことができるようになった。その違いかなと思います」
その言葉を聞いて分かるように、奥村は気持ちで投げるタイプである。
「僕の持ち味は投げっぷり。ストレートや変化球は置いといて、野球を観たことがない人でも気持ちいいなと感じる投げっぷりなので、是非見てください」