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長谷部誠の心が整っていない頃秘話。
「もう代表はいいです」と進路相談。
posted2018/07/26 08:00
text by
木本新也Shinya Kimoto
photograph by
Getty Images
その少年を初めて見たのは2001年5月20日、高校総体静岡県大会の2次リーグだった。藤色ユニホームの背番号7を着け、ドリブル突破で相手ゴールに迫る姿が目を引いた。
藤枝東高グラウンドで行われた藤枝東vs.静岡学園戦。U-17日本代表の中心選手だった成岡翔(現J3相模原)をはじめ、永田充(現J2東京V)、谷澤達也(現J3相模原)ら将来有望な選手が顔を揃えていた。
複数のJクラブのスカウトが視察に訪れる中、当時、藤枝東の監督を務めていた服部康雄氏の言葉が今でも鮮明に心に残っている。
「最近は成岡より、長谷部の方が面白いプレーをしているよ」
背番号7の正体は、当時は無名の長谷部誠(現フランクフルト)だった。世代別の代表経験はなかったが、高校総体で試合を重ねるごとに成長。トップ下のポジションで攻撃の中心を担い静岡県大会を制すと、全国総体でも東福岡、習志野、鹿児島実などに勝利してチームを準優勝に導いた。その活躍が目に止まり、浦和、名古屋からオファーが届き、浦和入りを決断。その後の活躍は周知の通りである。
国際Aマッチ出場数は歴代5位の114試合。主将として81試合の出場は宮本恒靖氏(現G大阪監督)の55試合を上回る歴代最多の数字だ。日本代表を長年引っ張った長谷部だが、日の丸とのファーストコンタクトは最悪だった。
「もう代表はいいです」とふて腐れ。
2001年11月、磐田市内で行われたU-18日本代表候補合宿に参加。初めて世代別の代表候補に選出されて切れ味鋭いプレーを見せた。代表定着のアピールに成功したかに思われたが、当時の田嶋幸三監督(現日本サッカー協会会長)は「周囲に与える影響が大きすぎる。今からチームに融合させるのは難しい」と微妙な評価。翌年5月にアジアユース選手権カタール大会の予選を控えており、グループ戦術が確立されつつあるチームに長谷部を加えるのは得策ではないとの判断を下した。
当時の長谷部は17歳の高校3年生。まだ、心は整っておらず「もう代表はいいです」とふて腐れた表情を見せていたことを思い出す。それが、誰もが認める日本代表の顔になるのだから、人生は分からない。