Jをめぐる冒険BACK NUMBER
元FC東京“ノリカル”は引退していた。
現役時代の苦楽は仲介人で生かす。
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph byAtsushi Iio
posted2018/05/13 08:00
西が丘でのFC東京U-23の試合に駆けつけた“ノリカル”こと鈴木規郎。セカンドキャリアでもサッカーに携わる。
フィリピンでは不完全燃焼だった。
いくつかある国の中からフィリピンのクラブを選んだ理由は、親友の存在である。
「柳川雅樹。ヤナが僕の2カ月くらい前にフィリピンに渡っていて、そのクラブが僕を獲得してくれるって言うんですよ。だったら、俺も行くって」
鈴木にとって2つ目の所属クラブとなった神戸で出会い、その後、オフにふたりで海外旅行をするまで親しくなった4学年下の後輩と、現役生活の最後を楽しむ――。
それが、鈴木の思い描いたストーリーだった。
ところが、フィリピンでのプロ生活は、鈴木にとって花道にならなかった。
鈴木はセカンドトップやウイングを主戦場としていたが、クラブが求めていたのは、本格派のストライカーだったからだ。
「他にもいろいろと問題があったんですけど、結局、あまり試合に出られなくて。自分としては不完全燃焼で」
大きな夢を持つ若手をサポートしたい。
1年で帰国した鈴木は沖縄に拠点を置き、今後の身の振り方を考えながら自主練習に励み、ザスパクサツ群馬、ジェフユナイテッド千葉への練習参加のチャンスを掴む。
だが、残念ながら契約には繋がらず、2016年12月のトライアウトに最後の可能性を懸けることにした。
「その前に関東1部のチームから声を掛けてもらっていて、それは、ありがたかったんですけど、アンジェに行ったときも、練習参加でミドルを叩き込んで契約を勝ち取った。だから、最後も自分で道を切り開きたかったし、何とかなると思ったんです」
トライアウトでは、実際にゴールを決めた。しかし、オファーは届かなかった。
「それで、ケジメを付けることにしました」
セカンドキャリアのイメージはあった。それが、仲介人だった。
「指導者という選択肢もあったんですけど、指導者になるなら将来はJ1で監督をやりたい。でも、それには何年掛かるのかなって。そうやって、いろいろと考えるなかで魅力を感じたのが、代理人(現仲介人)。僕は現役時代、3つの代理人事務所と契約していて、選手にとっていかに代理人の存在が大切かを知っているし、若い頃、自分にはレアル・マドリーに移籍したいという夢があった。今度はそういう夢を持つ若い選手をサポートしたいなって」