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37歳、苦労人アスリートの五輪道。
エアリアル田原直哉へ心から賛辞を。
text by
矢内由美子Yumiko Yanai
photograph byGetty Images
posted2018/02/21 07:00
平昌の凍てついた夜空に舞った田原の演技。その1本には、多くの支援者の気持ちがこもっていた。
37歳だが……まだ伸びしろはあると。
'10年バンクーバー五輪は前年のケガの影響で出場権を獲得できず、'14年ソチ五輪は出場枠獲得も、連盟の定める基準を満たせず全日本スキー連盟が派遣を見送ったため、道はひらけなかった。しかし、ここでも諦めず、今回の平昌五輪でとうとう夢舞台を踏んだ。
結果は予選落ちだったが、37歳ながらもエアリアル歴はまだ12年。伸びしろはまだあると感じている。しかし、一方では年齢のこともある。そもそもやりたいと言っても競技を続けられる環境を整えられるかどうか。現時点では先のことは決められない。
それでもひとつ言えることがある。
「諦めずにその競技をやり続ければ、何か形になると思う」
多くの人に支えられ、平昌の1本が跳べた。
平昌五輪の会場には、大勢が応援に来てくれた。「父(正直さん)、居候でお世話になっていた長野県白馬の岳園荘の方たち、体操のナショナルチーム仲間だった斎藤篤思。それに、エアリアルの拠点である北海道の美深町からも8人くらい来てくれている」
田原は観客席にいる人々の名を丁寧に挙げながら、日本で応援してくれる人にも頭を下げた。
「スキーを初めて滑った福島の猪苗代の方々は本当に良くしてくれた。'13年まで所属した徳洲会スキークラブがなければスキーに打ち込むことはできなかった。1人では何もできない僕が、いろいろな人に助けられ、平昌では大勢の力を合わせた1本を跳べた」
今季もW杯で表彰台に上がっていただけに、狙っていたメダルはもとより、決勝に進めなかったことには悔しさが残る。
しかし、初めて五輪の舞台に立った田原が残したものは成績だけではないはずだ。
「僕がエアリアルを知ったのもテレビを見たから。今回をきっかけに関心を持ってもらえれば僕の五輪に価値があったと思います」