リオ五輪PRESSBACK NUMBER
「夢は指導者ではなく選手のもの」
競泳・松田と久世コーチの信念とは。
text by
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph byAFLO
posted2016/09/11 08:00
幼少の頃から長年にわたっての信頼関係。リオ五輪でも久世コーチは松田の精神面をしっかりとサポートした。
心身ともにバックアップした久世コーチの存在。
北京五輪後も危機を迎えた。所属先企業との契約が終了し、その後契約をかわした企業とも、当時の金融危機の影響もあり、2009年12月に打ち切りとなったのだ。
海外遠征など活動費は莫大だ。第一線での競技生活が続けられるかの瀬戸際に追い込まれ、松田自身、「やめるときかもしれません」と口にせざるを得ないところまで追い込まれた。その後、支援する企業が決まっての今日がある。
競技人生の支えになったのは、久世由美子コーチであった。松田がスイミングクラブ入会時から指導にあたってきた。松田が地元宮崎を離れ、中京大学に入学するとなると、松田の要望もあり、ともに移り住み、教えた。自身の家庭がある中でのことだ。
北京五輪後の危機に際しては、支援企業探しに奔走。書いた手紙は600とも言われる。
ロンドン五輪後、松田が平井伯昌コーチに教わるようになった際は、「今までやったことを財産にしてくれる」と送り出した。約1年で戻ってきたときにもあたたかく迎えた。それらを振り返れば、人生のうち少なくない部分を捧げたと言ってもよかった。その支えなくしては、松田の競技人生はなかった。
「自分が小学生のうちに出てメダル獲ったら……」
久世コーチをそこまで突き動かしたのは何だったか。2009年にインタビューした際、こう語った。
「指導を始めての印象は、同年代の子よりも立派な体格と、速くなりたいという意識の高さが印象的でした。いつの間にか隣にいて、『速くなるにはどうしたらいいですか』と聞いてくるくらいでした」
1992年、バルセロナ五輪の200m平泳ぎで、中学2年生の岩崎恭子が金メダルを獲得したあとの言葉も印象的だったと言う。
「中学生でメダル獲って話題になるなら、自分が小学生のうちに出てメダル獲ったらもっと話題になるなあ」
当時、松田は8歳である。
「きちんと育てていけば、将来が楽しみな選手だなと感じました」
指導に当たって注意したのは、「礼儀や感謝を忘れない、しっかりとした人間に育てること」だった。将来、日本代表になったときを考えてのことだった。
久世コーチの指導がどのように実を結んだかは、代表における松田の姿勢や行動が物語っている。