オリンピックへの道BACK NUMBER
親族、選手への“傲慢”な報道姿勢。
リオ五輪中継でも繰り返されるのか。
text by
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph byJMPA
posted2016/07/12 11:00
ロンドン五輪から4年、吉田沙保里は今度こそ近しい人々に金獲得の瞬間を見せられるのだろうか。
「そういう画を求められるというか……」
以前、テレビ局の人に、尋ねたことがあった。
試合を見守る両親の、親しい人の映像は、必要なものなのか、と。
すると答えた。
「やっぱり、そういう画を求められるというか、観たい人がいるから、それに応えたいというところだと思います」
果たして、どこまで視聴者がそうした映像を求めているのかは分からない。求められているならそのまま応じればいいのか、という疑問も湧く。
誤解のないように書くと、テレビ局の中にも、オリンピックのときに限らず、日頃から取材をしていて、選手やその周囲の人々と信頼関係を築いている人たちはいる。スポーツが好きで、応援していて、だからその姿を伝えたいと努力している人がいるのは知っている。
そうした人々は、踏みにじるような行為には出ないであろうとも思っている。
五輪報道は日常から競技を追っている人だけでない。
ただ、オリンピックの場合、スポーツを日常から追っている人たちだけが取材にあたるわけではないという事情がある。
いわゆるワイドショーであったり、さまざまな番組が追いかけて、トピックにしようとする。試合そのものよりも、周囲の話題を積極的に取り上げようとする。すると、強引なスタッフが少なからず現れる。
「ニーズなのだ」と言うかもしれない。
でも、思う。
どこまでテレビを観る人に求められているのかという疑問は置いたとしても、ニーズがあるからという理由で、「犠牲」にしていいものなのかどうか。
選手あるいはその周囲の人の、残念そうな表情や言葉を知るから、なおさら思う。
リオデジャネイロ五輪でも、同じ光景が繰り返されるのだろうか。無念な思いをする人がまた、いるのだろうか。