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<独占公開、W杯の真実> 矢野大輔・ザックジャパン通訳日記 ~ラストピースをめぐる指揮官の逡巡と決断~
posted2014/09/04 11:00
text by
矢野大輔Daisuke Yano
photograph by
Hirofumi Kamaya
そこには今まで明かされることのなかったザッケローニ監督の
真意や選手との対話が克明に記されていた。貴重な資料の中から
ブラジルW杯に挑んだ約1カ月半にわたる激闘の日々を公開する。
本日発売のNumber860号「新監督に贈る日本サッカー再生計画。」より、
ザックジャパン4年間の戦いの全貌を明らかにする、
矢野大輔通訳がしたためた日記を特別に一部公開します!
「大輔、まだイタリアにいるのか? 日本に戻る準備はできたか? たくさんの仕事が待っているぞ」
4年前の2010年9月6日。一本の電話が、僕の人生を一変させることになった。
デル・ピエロに憧れて、いつかセリエAの選手に、そして日本代表としてW杯に出場するという夢を抱いてイタリアに留学したのが15歳の時。言葉や文化の壁にぶち当たりながらもトリノでサッカー漬けの日々を送り、どういうわけかデル・ピエロのマネジメント会社に就職したのが22歳の時。その4年後、大黒将志がトリノにやってきて、彼の通訳としてセリエAの舞台に触れることができ、当時トリノを率いていたアルベルト・ザッケローニ監督と出会った。
そしてトリノが第二の故郷と呼べるほどすっかりイタリア生活に馴染み、30歳で迎えた'10年夏、ザッケローニ監督からの電話に即答した。
「日本のためなら、何でもやります」
日本代表チーム通訳として過ごす日々は、人生の宝物になる。そう確信していたからこそ、日記を付けることにした。
4年間を記録した日記の冊数は、大学ノート19冊に及んだ。
プライベートも含めた監督との会話や、協会や合宿先でのスタッフミーティング、綿密に計画立てて行なわれた練習メニュー、選手と監督の対話など、可能な限り毎晩日記として記録に残した。日記の冊数は大学ノート19冊に及んだ。
何度か挫けそうになりながらも4年間日記を書き続けられたのは、日々見聞きする監督のサッカー哲学を自分のものにしたいという思いもあったし、いずれ自分の子供たちが大きくなったら、父親はこういう仕事をしていたんだと読んで聞かせたい思いもあった。
2014年6月25日。ブラジルW杯1分2敗という成績でザックジャパンは解散した。日本に帰国してもW杯自体はまだ続いていて、テレビでW杯を見ると「ああ、終わったんだな」と実感した。しばらくは脱力感というか虚無感ばかりで何もする気が起きなかったけど、W杯が終わって、気持ちも切り替わって、世論に対して冷静に向き合えるようになった時、新たな思いが湧き上がってきた。