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<もう一度、代表へ> 大久保嘉人 「遺言――亡き父との約束」
text by
益子浩一Koichi Mashiko
photograph byYoshiyuki Mizuno
posted2014/05/13 15:30
代表引退をほのめかした大久保が怒鳴られた、あの日。
あの日、怒鳴られたことが忘れられない。ベスト16に進出した2010年W杯南アフリカ大会。大久保は岡田ジャパンの主力として、1次リーグから全4試合に先発出場した。日本は決勝トーナメント初戦のパラグアイ戦で、PK戦の末に敗れ去った。大久保には、ある程度の成果を残した満足感があるにはあった。だがそれよりも、サッカー人生をかけて臨んだ大きな大会が終わったことへの脱力感の方が心を占めた。大会後、家族に「俺、代表はこれで終わりにする。もういい……」と正直に伝えた。入退院を繰り返し、南アフリカの地まで来ることができなかった父にも電話で同じことを話した。すると、肺を切除した影響もあって、大きな声を出すことが難しくなっていた父が、電話口で大声を張り上げたのだった。
「お前は、バカか!」
日本を背負う選手になれ。一番になれ。
幼少時代から、父は決して諦めることを許してはくれなかった。それは痛いほど分かっていたが、当時は疲れ切っていた。
代表じゃないと、俺の試合を病室で見られない。
「本当にその時は、もう代表に行く気がなくなってしまったんです。代表選手はすごく忙しい。クラブでリーグ戦をこなして、みんなが休んでいる時には、代表の試合がある。そして、海外への移動でしょ。家族といる時間もない。忙しすぎて、嫌になった。ワールドカップで燃え尽きてしまったのもあったと思う。でも、おとんにすれば、普段のJリーグはテレビ(地上波)でやっていないから。代表の試合じゃないと、俺の試合を病室で見ることができなかったみたい。最後は『頑張って、代表に入ってくれよ』って、言ってたもんね」
思えば2006年のW杯ドイツ大会のメンバー入りを逃した時も、そうだった。2005年1月から1年半過ごしたスペイン1部マジョルカで、一時はレギュラーをつかんだものの、際立った活躍はできずに日本代表から遠ざかりつつあった。W杯出場は「無理やろうな」と自分でも思っていた。それでも落選すると、さすがに落ち込んだ。ちょうど、セレッソ大阪への復帰を決断した時期と重なった。離れて暮らしていても、父は息子の胸の内を感じたのだろう。突然、「嘉人に会いに行く」と言い出したのだという。紙切れに書いた住所だけを頼りに、小倉駅から新幹線に乗り、1人で大阪まで訪ねてきた。