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<往年のレオ戦士対談> 工藤公康×伊東勤 「ライオンズブルーは永遠に」
posted2014/05/14 11:00
text by
二宮清純Seijun Ninomiya
photograph by
Atsushi Kimura
当時の西武は、まさに“黄金時代”の絶頂にあった。
その幕開けと同時に入団した若きバッテリーは、
覇道を歩むチームの中で主力へと成長していく。
2人はいかにして王者の遺伝子を受け継いだのか。
猛き獅子の真実を知る戦友が語る、強さの秘密――。
Number850号より、黄金期の西武を支えた2人の対談を特別に全文公開します。
――1982年、お二人は1歳違いですがドラフトの同期として西武に入団しました。この年は広岡達朗さんが監督に就任し、「西武ライオンズ」として初めて日本一になった年でもあります。新人だったお二人にとって、広岡さんはどんな監督でしたか。
伊東 とにかく、距離感がある監督でしたね。まず笑わないし、すごく冷たい印象というか。必要以上の会話はされない方でした。
――工藤さんは「坊や」と呼ばれて、ずいぶん可愛がられたんじゃないですか?
工藤 いや、そう呼ばれたのは1回か2回ぐらいですよ。僕の印象に残っているのは練習の厳しさです。カバーリングにバックアップ……基本中の基本を、徹底的にしごかれたっていうか、教え込まれましたね。
伊東 今となってはそういう練習のおかげで現役を長くやれたんだと思えますけど、当時は全く面白くなかった。基本練習の繰り返しだから。何でこんなことやらなきゃいけないんだって。
工藤 1年目のピッチャーなんて、投内連係を毎日2時間ですよ! あれはしんどかった。よく覚えているのは、カバーリングの時、目をつぶってでもファーストベースを踏めるようになれと言われたことです。実際、試合の中ではベースを見る暇はほとんどないし、足を緩めたらセーフになってしまうかもしれない。細かいことですけど、非常に厳しく指導してもらいました。
「楽しんでいられた」プロ1年目での日本シリーズ。
――今考えると、プロ1年目から日本シリーズを経験できたというのは、その後の野球人
生で大きな意味があったのでは?
伊東 僕は試合には出ずにブルペンで戦況を見つめているだけでしたけど、それでも「これが日本シリーズなんだ」って雰囲気は味わっていましたね。僕なんかまだ出られるような選手じゃないって自覚していましたから、逆に楽しんでいられた。公康は投げたよな?
工藤 1試合だけリリーフで投げました。打席にも立つことになって、中日の都(裕次郎)さんからライトオーバーのツーベースを打ったんですよ。あの頃はまだ、日本シリーズがどういう舞台なのかよく分かってなかったんだと思います。ナゴヤ球場は1年前まで高校生としてプレーしていた場所でもあったから、「あ、帰ってきたんだな」ぐらいの感じしかなかったですね。