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京都のJ2降格を重く受け止めて……。
不屈の柳沢敦、敗因と未来を語る。
text by
佐藤俊Shun Sato
photograph byTamon Matsuzono
posted2010/11/18 10:30
鹿島や京都などの国内クラブだけでなく、サンプドリアやメッシーナという海外クラブでもプレーした柳沢敦。日本代表として2度のW杯に出場した男は、現役にこだわり続ける
11月14日、京都サンガは浦和レッズに0-2で敗れ、J2降格が決まった。
うなだれる選手たちの中で、柳沢敦は一番最後にベンチを出て、サポーターへの挨拶に加わった。京都は4回目、柳沢自身は初となるJ2降格の責任を重く受け止めているのだろうか。その表情は3年前とは異なり、色を失ったように生気がなかった。
2008年、柳沢は鹿島アントラーズから京都サンガに移籍してきた。
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その前年、チームでは主将を務めていたにもかかわらず夏前から出番が減少し、鹿島残留か移籍かで柳沢は悩んでいた。そんな時、京都の加藤久監督から直接ラブコールを受ける。さらにコーチをしていた秋田豊(現監督)から「鹿島の勝者のメンタリティーを京都という若いチームに教えてやってほしい」という誘いもあり、悩んだ末に移籍を決断した。
1年目はコンディションも良く、チームの攻撃を活性化させることができた。
32試合に出場し、14得点を挙げる。日本人最多得点となり、2001年以来の二桁ゴール、さらにJリーグベストレイブンにも輝いた。「チームの結果(14位)には満足できないけど、自分としてはまずまずだった」と語るように、「ヤナギ健在」をアピールしたのである。
チームで活躍し始めた柳沢に……急に故障が襲いかかる!
ところが2009年は、4月に左膝半月板損傷で手術を受けるなど、なかなかいつもの調子に乗り切れなかった。また、中盤の選手不足によりサイドのポジションに置かれたりもした。ゴールは22試合の出場で4得点に止まり、チームはJ1残留を果たしたものの個人的には苦しい移籍2年目のシーズンとなった。
今年は主将に任命され気持ちも新たにスタートし、5月5日の清水エスパルス戦では史上6人目のJ1通算100ゴールも挙げた。 だがチームそのものは低迷し、加藤監督が解任されてしまう。秋田豊が監督を引き継ぐもチームは浮上のキッカケを掴めないまま、転がるようにJ2へと陥落していったのである。
「責任を感じています」
柳沢は、声を絞り出すように言った。