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<6人の証言者が語る> 竹下佳江とJTマーヴェラス 「10年の軌跡」
text by
吉井妙子Taeko Yoshii
photograph byMami Yamada/Michi Ishijima/Nanae Suzuki
posted2012/07/06 06:00
黒鷲旗決戦前夜、コートの指揮官・竹下に作戦を進言。
「私には必ず二人のブロックがつく。でも華麗なトスワークで相手を振ってくれるだけでなく、『同じ攻撃でもスピードや高さを少し変えてみよう』とか、『ジャンプする前のアプローチが短くなってしまうと、相手のブロックにウチの攻撃を読まれるから気をつけて』とアドバイスもされた。そんな細かいところまで見ているのかとビックリしました」
1年目からチームの仲間として溶け込んだヨンギョンは、25連勝というチーム記録を作り、レギュラーラウンド1位でファイナルラウンド進出を決めたものの、ファイナルでは東レに0-3で完敗。
こんなことをバラしたらテンさんが嫌がるかなと、悪戯っぽい笑みを浮かべつつ、'10年5月の黒鷲旗決戦前夜のエピソードを語る。
「テンさんに電話をかけ体育館に呼び出したんです。そしてこう告げました。『東レが私を徹底してマークしてくるから、私を利用して、他の選手にボールを回して欲しい。私は得点王とかMVPなんて興味がない、チームとしてどうしても東レに勝ちたいんです』と」
ヨンギョンはコートの指揮官に作戦を進言するのは越権行為と考え、竹下に怒られないかとドキドキだったと言う。しかし、竹下から「私も同じことを考えている」と言われ、心のリングが繋がっていることを感じ取る。
固く心を閉ざす竹下を動かした、一柳昇の熱心な誘い。
「結果、1-3でまた東レに負けはしたけど、翌シーズンのリーグ優勝に結びついたと思います。2年目にはMVPをいただきましたが、本来はテンさんが貰うべきと考えていたので、賞金はJTの食事会に使わせてもらいました。チームメイトの胃袋が元気になったので、続く5月の黒鷲旗でも優勝できたのかも」
ヨンギョンが「JTの2年間は私の宝」と繰り返すように、人との出会い、環境は選手の競技人生を大きく左右する。竹下にとっても、JTに移籍した2002年は大きなターニングポイントになった。当時の監督だった一柳昇の熱心な誘いがなかったら、バレー界に復帰していたかどうか分からないし、ましてや、今の全日本の速いバレーも違う形になっている可能性だってあったのだ。
シドニー五輪の出場を逃した2000年、竹下は戦犯扱いされ、2年後にバレー界を去った。もう二度と白球を追うことはないと頑なに心を閉ざしていた竹下を、一柳は断られても断られても、誘い続けた。「君が必要だ」と繰り返し話す一柳の言葉に竹下の心が動いた。「君の能力を活かすセッターの練習をやりたい」という一柳の考えにも、興味が湧く。竹下はそれまで、本格的なセッターの指導を受けたことがなかったからだ。
'02年8月、復帰を決断。JTがV1に降格していたのも好都合だった。「復帰するならゼロからスタートしたかった」(竹下)