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<ナンバーW杯傑作選/'93年4月掲載> カズの向こうに世界が見える。 ~Jリーグ開幕とW杯への夢~
text by
鈴木洋史Hiroshi Suzuki
photograph bySatoru Watanabe
posted2010/05/07 10:30
W杯予選突破を託されたハンス・オフト。
すでにサッカーは10年以上前から少年の間では野球を凌ぐ競技人口を持ち、底辺拡大は着々と進んでいた。それもまた、レベルと人気のアップのひとつの要素になっていた。
残された問題はただひとつだった。日本代表の再建である。
すでに'91年の段階で'93年のワールドカップ予選とJリーグ開幕に至るスケジュールは見えていた。ワールドカップ出場は日本サッカー界の長年の悲願であるだけでなく、Jリーグ成功の大きな要因でもあるのだ。
予選突破のためには誰を日本代表の監督にすべきか。すでにプロになった選手を率いるには、世界のサッカーを知り、指導者として実績のあるプロの外国人監督しかいなかった。自薦、他薦を合わせて数十名の候補者のなかから、かつてヤマハでコーチ、マツダでコーチと監督の経験もあるハンス・オフトが選ばれたのが、去年4月のこと。
その後、日本代表が大きく成長した時、オフトの優れた点がいくつか指摘された。
「自分は何を考えてサッカーをやってきたのかな」
日本人だと曖昧にしがちな基本を繰り返し徹底したこと。アイコンタクト、トライアングル、スリーラインというのがそれだ。
選手のポジションの適性を見抜く力が鋭いこと。例えば、レッドダイヤモンズでは左サイドのトップの福田を、その体の動きの癖を見て右サイドのMFに起用して成功した。
ゲーム分析が鋭いこと。例えば、ダイナスティカップの時、「中国は最初の25分に猛攻をかけてくるが、それを凌げば大丈夫」というオフトの言葉通りの展開になった。
選手に迎合せず、十分に話し合って戦術を徹底したこと。ラモスとの確執を乗り切ったことがその象徴だろう……。
「この1年で10年分ぐらい勉強させてもらっているような感じですよ。これまで自分は何を考えてサッカーをやってきたのかなと思うくらいです」(清雲栄純コーチ)
オフトの手腕は予想以上だった。
去年の4月から6月にかけ、カズの契約更改問題がマスコミを大きく賑わした。読売残留か清水移籍かを巡り、カズは、いわばサッカー(読売)を取るか親(清水)を取るかの選択に苦しむことになる。25歳の若さで読売新聞社長に「金はいくらでも出すから残ってくれ」と迫られ、清水の株主であるフジテレビ社長との会談にも引っ張り出された。