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<ナンバーW杯傑作選/'93年4月掲載> カズの向こうに世界が見える。 ~Jリーグ開幕とW杯への夢~
text by
鈴木洋史Hiroshi Suzuki
photograph bySatoru Watanabe
posted2010/05/07 10:30
帰国したカズが日本サッカーに与えた影響とは?
その最中に帰国したのがカズだった。1990年7月、将来のJリーグが一般のメディアでも話題になり始めた頃、15歳でブラジルにサッカー留学し、かのサントスFCでも活躍したカズが読売でプレーするというのだ。
カズが日本のサッカーを変えてくれる……そんな期待が膨れ上がった。しかし、ブラジルでのサクセスストーリーが溢れるわりには、帰国1年目のカズは期待したほどのプレーを見せることができなかった。
「カズが偉かったのは、このままでは駄目だと思い、徹底的に筋力トレーニングをしたことです。それこそ他の選手の倍ぐらい練習していましたから」(今井恭司カメラマン)
その成果が出て、'91年6月のキリンカップ'91では3得点をあげて日本を優勝に導き、最後の日本リーグとなった'91/'92シーズンにはMVPを獲得して読売優勝の原動力となった。
カズが果たした役割は、もちろん戦力面での貢献だけではない。サッカー王国ブラジルで揉まれただけにプロ意識が徹底しているカズは、誰よりも真剣に練習して若手選手に影響を与え、必要とあれば日本協会やチームに対して遠慮なく注文をつけることでサッカーの環境を変えるきっかけも作ってきた。
例えば、キリンカップ'91の時、
「外国チームはお金をもらえるのに日本代表はもらえないというのでは、最初から差別されているようなものだ。これでは勝てない」
と発言し、それがきっかけとなってこの時は出場手当てという形で選手にギャラが支払われた。そしてこれ以降、日本代表は“金になる”ようになったのだ。
「読売でも、カズを始めラモスらベテランを含むプロ意識の強い選手の要望を受け、メディカルチェックを充実させ、専門の用具係もおくようになりました」
と、小川一成読売日本サッカークラブ社長も語る。
観客の視線が選手の意識を変えていった。
当初は凱旋帰国した成り上がり者という趣だったカズは、この頃にはスターの輝きを身につけ始めた。日本リーグの優勝祝賀パーティーに白のスーツ姿で、続く表彰式にはアルマーニのタキシード姿で現れ、自然とスポットライトを浴びていった。
一方、Jリーグが近づくにつれ、本格的なプロ化がもたらした選手全体への影響がはっきりと形になって現れ始める。誰もが指摘するように、観客の視線を意識することで、プレーが積極的になったのだ。
「ボールを奪い、ゴールに向かう執念が出てきたし、つまらないミスや意味のないファウル、簡単にボールをタッチラインに出してしまうことも減りましたね。審判から見ても明かにレベルが上がりました」
と、ワールドカップでの主審経験もある高田静夫審判も認める。
もちろんそこには、ブラジル仕込みの“見せるプレー”でファンを沸かすカズの刺激もあった。