北京をつかめBACK NUMBER
高橋の失速と中村の快挙で見えたもの。
text by
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph byTamon Matsuzono
posted2008/03/13 00:00
果たして高橋尚子は、どのような走りをみせるのか。
五輪への切符を賭けた名古屋国際女子マラソンには、坂本直子、原裕美子といった実績十分の選手たちが出場したが、最大の関心はやはりシドニー以来の五輪出場を狙う高橋に集まっていた。
「今年は本当に人が多いねえ」
高橋人気もあって、運営スタッフがそうつぶやくほど、多くの観客がスタジアムにつめかけ、沿道には人があふれた。
スタート時の気温は13度、3月にしては強い陽射しが降り注ぐ中、スタートしたレースは序盤、超スローペースとなった。おかげで先頭集団は30人以上という大混戦だった。
9km過ぎ、その先頭集団から、一人のランナーが遅れていくという異変が起こりスタジアムの観客席に悲鳴ともつかないどよめきが起こった。高橋がズルズルと集団から落ちていったのである。結局、高橋がペースを取り戻すことはなく、はるか後方へと置かれていき、優勝争いから完全に脱落した。
レースが中盤を過ぎると、高橋抜きの先頭集団にも変化が起こった。28kmをすぎて坂本直子がペースを上げれば、31kmすぎには堀江知佳が前へ出る。そうして集団がばらけていった。そんな混戦を抜け出したのが、21歳、この大会が初マラソンの中村友梨香だった。中村は32.6kmでスパートするとペースを維持し独走。最後の2.195kmを7分13秒の好タイムでまとめ、2時間25分51秒で優勝。北京五輪代表の座を射止めたのだった。
高橋尚子は結局、2時間44分18秒の27位。北京への夢は絶たれた。今回の結果から見えたのは、セルフマネージメントの難しさ。
高橋は、'05年5月、長く指導を受けてきた小出義雄氏との関係を解消し、「チームQ」を結成して競技を続けてきた。
コーチはいない。目標とする大会を定め練習メニューを組み立て、どこまで消化できているかを把握し、トレーニングを再考。どこまで追い込めばよいか、どこでセーブをかければよいか、すべては自らの判断で行なってきたのである。
だが、優れたアスリートであることとコーチングは別の能力である。自己客観化は誰であれ易しいものではない。一人で二役兼ねてきたところに無理はなかったか。
高橋はレース後、こう語った。
「(レース前の)1カ月は走れていました」
「スタートラインに立つまで、優勝を視野に入れていました」
大会に臨むにあたり、手ごたえを感じていたのである。だが現実は、
「きついとも感じなかったし息が上がる感じもなかった。体が動かなくておかしいなと思いながら走っていました」。
順調だった直前の調整と、レースでの体調の間にはギャップがある。直前の調整の過程に、本人では気づかない何かがあったのではなかったか。
一方、初マラソンで優勝した中村は、高校時代、まったくの無名選手だったが、現在所属する天満屋の武富豊監督に見出され、高校卒業後に天満屋に入社。2年前から北京五輪選考レースへ向けて長期計画で強化を図った結果が、今回の快挙だった。
'00年シドニーに山口衛理、'04年アテネに坂本直子、そして今回の中村と、3大会続けて五輪代表を送り出した天満屋。本人たちの努力はあっただろうが、武富監督の指導法も賞賛されるべきであろう。
恩師から独立して、あえてコーチを置かなかった高橋と名伯楽に鍛えられた中村。二人のランナーの対照的な結果から、指導者の大きさを実感させられたレースでもあった。