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優雅なアンリとインザーギの狡猾。
text by
熊崎敬Takashi Kumazaki
posted2006/04/20 00:00
準々決勝にも突入すると、チャンピオンズリーグには異様な緊迫感が漂いだす。いつもなら五割も埋まれば上出来のユベントスの本拠地デッレ・アルピが、この夜は嘘のように観衆を集めた。イタリアの三色旗を模したモザイクに美しく彩られたゴール裏からは、不安と期待が入り混じったファンの息遣いが伝わってくる。
2点差をつけられたユベントスを奮い立たそうと、『ガゼッタ・デッロ・スポルト』紙は突撃ラッパを高らかに吹き鳴らした。
〈トンネルの中からでも総攻撃を〉
ピッチに向かうトンネルの中でも、アーセナルを圧倒せよ。それくらいの覚悟がなければ、この難局を乗り越えることはできないという強烈な叱咤だった。大一番にふさわしい雰囲気が出来上がった。
ただ、ひとりだけ違ったようだ。彼だけは草サッカーをしに来たかのように、肩の力が抜けていた。褐色の背番号14、アンリだった。
キックオフから4分、アンリは思い立ったかのように3人抜きを試みた。左サイドでボールを持つと、すかさずムトゥを股抜きし、瞬時に加速してザンブロッタとカンナバーロの間に飛び込む。惜しくも阻まれたが、それは美しいスラロームだった。10分過ぎには、左サイドに走り出し、後ろから飛んできた浮き球を器用に曲げた右足に吸いつけるようにしてトラップ。その流れでコバチをかわし、最後にコーナーキックを奪った。
アンリは無重力の空間に生きているかのようだ。風のように走り、軽業師のように舞い、ボールを意のままに操る。
19分にはさり気なく、恐るべき芸当をやってのけた。ザンブロッタを背負いながらセスクが蹴った浮き球を高く上げた右足の甲に吸いつけると、そのままスッと降ろしながら瞬時に右へターン。ボールを見せてもらえないまま目の前からアンリが消えてしまったのだから、ザンブロッタも面食らっただろう。アンリはすでに、GKブッフォンと正対していた。左足から放たれた弾道は、惜しくもブッフォンに弾かれる。決まっていたら、この時点で決着はほぼついただろうし、後世に語り継がれるゴールになっていたかもしれない。だが、アンリは悔しがる素振りすら見せなかった。ユベントスの面々は、自尊心を傷つけられたことだろう。
アンリは異次元の世界に遊び続けた。力み返って無様な失敗を繰り返したユベントスのトレゼゲとイブラヒモビッチは、引き立て役として駆り出されたようなものだ。
虎視眈々と逆襲を狙うアンリと、多くの敵の中でプレーするユベントスのふたりとでは、たしかに享受できる時間も空間も違う。だが、立場が逆だったとしても、いまのアンリならミスを繰り返した挙げ句に集中力を失い、ファンに罵倒されたイブラヒモビッチのような顛末にはならないはずだ。なぜなら彼は、狭い場所で遊ぶ術も心得ている。
「ハイバリーの狭いピッチでは正確に素早くプレーしなければいけないから、多少のプレッシャーは気にならないよ」
いつかそう語ったことがある彼は、何より子どものように球遊びが大好きだ。同僚の家に遊びに行くと、お喋りに興じながら足下で始終ボールを転がしているらしい。
後半もアンリは何食わぬ顔で敵陣を切り裂いた。50分には、サイドでふたりの敵を前にボールを持つと、せわしなくボールを触りながらインサイドに切り込みかけて、急に立ち止まった。足音が聞こえたのだろうか。背後から猛烈な勢いで食いついたネドべドを、平然とやりすごしたのだ。
残り15分になってユベントスが10人になると、アンリは走るのをやめた。中央に立ち尽くし、センターバックふたりの注意を引きつけることで、敵の手薄なサイドを突くリュングベリやフレブの仕事を手助けした。給仕を鼻で使う、王様のような尊大さを漂わせながら。
この夜のアンリは、たぶん一度も本気になっていない。凄いことをしたようで何もしなかったのか、何もしないようでいて凄かったのか……。結局、どちらも正しいのだろう。
(以下、Number651号へ)